加藤清正年表
― 清正公の生涯をたどる ―
加藤清正は1562年6月24日、尾張中村に誕生します。
加藤清正といえば豊臣秀吉の側近の家臣で、肥後の大名として活躍し、名古屋城の天守、熊本城を築城したことで知られています。
加藤清正は豊臣秀吉と親戚関係とも言われ、幼い時からずっと秀吉を兄のように慕う、強い絆で結ばれた関係となっていきます。
そんな加藤清正は2歳の時に父親と死別、中村から津島市に移転します。そこで読み書きなどを学び、1573年に豊臣秀吉が長浜城主になったと同時に長浜に移り住みます。この時加藤清正は11歳でした。
14歳の時に元服し、秀吉から加藤虎之助清正の名と170石の領土を与えられます。さらに、その3年後、市足久兵衛という酒乱の足軽をからめとり、200石を加増され、小物見役に取り立てられ、着実な出世街道を歩みます。
この時は豊臣秀吉も上り調子の時代。山崎の戦い以降、天下統一までを疾走していく時代に、加藤清正は秀吉を支え、めきめきと頭角を表していきます。
まずは豊臣秀吉に風向きが変わったきっかけとなる山崎の戦い。
加藤清正は敵将近藤半助を討ち取り、「手柄者」の感状を与えられます。
さらには織田家の宿老・柴田勝家を倒した「賤ヶ岳の戦い」では賤ヶ岳七本槍として福島正則らと活躍します。
この時清正22歳、その手柄を讃えられ3000石の加増となり、170石から10倍以上の石高の大名に成長していきます。
そして「小牧・長久手の戦い」では豊臣軍は敗北しますが、徳川家康を家臣に取り込むことに成功。1586年に後陽成天皇から豊臣姓を与えられ、豊臣政権が不動のものとなります。
この辺りから加藤清正は島津家討伐のために九州へ赴きます。肥後一揆の鎮圧、検地の実施など着実に仕事をこなしていき、1588年には19万5千石の大名に。まだ26歳、元服して12年目でこの石高は大出世です。
すっかり九州の大名、豊臣政権の重鎮としての存在感を増した、加藤清正。小田原城も落ち、豊臣秀吉が天下統一を果たしました。
それから後、新たな挑戦をすることになります。それが朝鮮出兵です。加藤清正は肥後を収める重鎮。朝鮮出兵の前線基地として肥前名護屋城の築城総指揮官を命じられ、突貫工事で翌年2月に完成させました。
この辺りから、築城スキルも買われるようになっていきます。
1592年から加藤清正隊は釜山へ上陸し、文禄の役が始まります。しかしこの時から、石田三成の仲には亀裂が入りはじめます。
戦いは4年にも及ぶ長期戦でしたが、1596年に豊臣秀次が自害、豊臣秀吉の命を受けて帰国。その数カ月後豊臣秀吉は明の使節と謁見するも条件が折り合いませんでした。しかし、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立。小西行長は清正が講和の邪魔になると判断。朝鮮で加藤清正が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行したなどと豊臣秀吉に訴えることになるのです。
その結果、この朝鮮出兵は不利な状況であると判断した石田三成により、加藤清正は京に戻され謹慎となってしまいます。
見かねた増田長盛が三成と和解させようとしますが、加藤清正は断ったそうです。その謹慎の数カ月後、京阪地方に大地震が起き、加藤清正がすぐに秀吉の元を訪れたことで謹慎が解けることになりました。
使節団が話す明の申し出を不服とする豊臣秀吉は、再び朝鮮出兵を計画。同年11月、加藤清正は熊本を出発し朝鮮出兵へ出向きます。この戦いは籠城戦となり、なかなか援軍が来ない状況で加藤清正隊は苦しめられます。しかし1598年に援軍が到着し、明・朝鮮連合隊は撤退。この時の籠城戦の苛酷さから、熊本城は籠城にも耐えられる城となったと言われるほどです。そして8月には兄のように慕った豊臣秀吉が死去し、帰国。その時の悲しみは想像を超えるものだったはずですが、悲しむ間もないほど次々と色々なことが起こります。
まずは豊臣政権をめぐり、石田三成と徳川家康が対立しはじめます。石田三成への反発があった加藤清正は、暗殺計画を立てますが失敗。この頃から徳川家康に接近していくことになります。
東軍所属かと思えば、1600年関ヶ原の戦いの折には九州で島津の抑えに入っており、実際には参加はしていない加藤清正。しかし54万石を与えられ肥後守を命じられ、徳川の天下となり江戸幕府が開かれた時も、この役職を守ることができました。1607年には熊本城が完成し、1610年には名古屋城の天守を加藤清正が担当。鉄壁の守りの城を見事に完成させ、熊本へ帰る途中、二条城へ立ち寄り徳川家康、豊臣秀頼と会見。その2ヶ月後に発病し、6月にこの世を去りました。享年50歳でした。
加藤清正は豊臣秀吉の勢いとともに、戦国時代を駆け抜けた武将の一人。
どんな戦いも諦めず、知恵を尽くして結果を出した武力、知力、精神力に優れた武将だったのではないかと思います。
加藤清正といえば豊臣秀吉の側近の家臣で、肥後の大名として活躍し、名古屋城の天守、熊本城を築城したことで知られています。
加藤清正は豊臣秀吉と親戚関係とも言われ、幼い時からずっと秀吉を兄のように慕う、強い絆で結ばれた関係となっていきます。
そんな加藤清正は2歳の時に父親と死別、中村から津島市に移転します。そこで読み書きなどを学び、1573年に豊臣秀吉が長浜城主になったと同時に長浜に移り住みます。この時加藤清正は11歳でした。
14歳の時に元服し、秀吉から加藤虎之助清正の名と170石の領土を与えられます。さらに、その3年後、市足久兵衛という酒乱の足軽をからめとり、200石を加増され、小物見役に取り立てられ、着実な出世街道を歩みます。
この時は豊臣秀吉も上り調子の時代。山崎の戦い以降、天下統一までを疾走していく時代に、加藤清正は秀吉を支え、めきめきと頭角を表していきます。
まずは豊臣秀吉に風向きが変わったきっかけとなる山崎の戦い。
加藤清正は敵将近藤半助を討ち取り、「手柄者」の感状を与えられます。
さらには織田家の宿老・柴田勝家を倒した「賤ヶ岳の戦い」では賤ヶ岳七本槍として福島正則らと活躍します。
この時清正22歳、その手柄を讃えられ3000石の加増となり、170石から10倍以上の石高の大名に成長していきます。
そして「小牧・長久手の戦い」では豊臣軍は敗北しますが、徳川家康を家臣に取り込むことに成功。1586年に後陽成天皇から豊臣姓を与えられ、豊臣政権が不動のものとなります。
この辺りから加藤清正は島津家討伐のために九州へ赴きます。肥後一揆の鎮圧、検地の実施など着実に仕事をこなしていき、1588年には19万5千石の大名に。まだ26歳、元服して12年目でこの石高は大出世です。
すっかり九州の大名、豊臣政権の重鎮としての存在感を増した、加藤清正。小田原城も落ち、豊臣秀吉が天下統一を果たしました。
それから後、新たな挑戦をすることになります。それが朝鮮出兵です。加藤清正は肥後を収める重鎮。朝鮮出兵の前線基地として肥前名護屋城の築城総指揮官を命じられ、突貫工事で翌年2月に完成させました。
この辺りから、築城スキルも買われるようになっていきます。
1592年から加藤清正隊は釜山へ上陸し、文禄の役が始まります。しかしこの時から、石田三成の仲には亀裂が入りはじめます。
戦いは4年にも及ぶ長期戦でしたが、1596年に豊臣秀次が自害、豊臣秀吉の命を受けて帰国。その数カ月後豊臣秀吉は明の使節と謁見するも条件が折り合いませんでした。しかし、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立。小西行長は清正が講和の邪魔になると判断。朝鮮で加藤清正が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行したなどと豊臣秀吉に訴えることになるのです。
その結果、この朝鮮出兵は不利な状況であると判断した石田三成により、加藤清正は京に戻され謹慎となってしまいます。
見かねた増田長盛が三成と和解させようとしますが、加藤清正は断ったそうです。その謹慎の数カ月後、京阪地方に大地震が起き、加藤清正がすぐに秀吉の元を訪れたことで謹慎が解けることになりました。
使節団が話す明の申し出を不服とする豊臣秀吉は、再び朝鮮出兵を計画。同年11月、加藤清正は熊本を出発し朝鮮出兵へ出向きます。この戦いは籠城戦となり、なかなか援軍が来ない状況で加藤清正隊は苦しめられます。しかし1598年に援軍が到着し、明・朝鮮連合隊は撤退。この時の籠城戦の苛酷さから、熊本城は籠城にも耐えられる城となったと言われるほどです。そして8月には兄のように慕った豊臣秀吉が死去し、帰国。その時の悲しみは想像を超えるものだったはずですが、悲しむ間もないほど次々と色々なことが起こります。
まずは豊臣政権をめぐり、石田三成と徳川家康が対立しはじめます。石田三成への反発があった加藤清正は、暗殺計画を立てますが失敗。この頃から徳川家康に接近していくことになります。
東軍所属かと思えば、1600年関ヶ原の戦いの折には九州で島津の抑えに入っており、実際には参加はしていない加藤清正。しかし54万石を与えられ肥後守を命じられ、徳川の天下となり江戸幕府が開かれた時も、この役職を守ることができました。1607年には熊本城が完成し、1610年には名古屋城の天守を加藤清正が担当。鉄壁の守りの城を見事に完成させ、熊本へ帰る途中、二条城へ立ち寄り徳川家康、豊臣秀頼と会見。その2ヶ月後に発病し、6月にこの世を去りました。享年50歳でした。
加藤清正は豊臣秀吉の勢いとともに、戦国時代を駆け抜けた武将の一人。
どんな戦いも諦めず、知恵を尽くして結果を出した武力、知力、精神力に優れた武将だったのではないかと思います。
1562年 | 加藤清正、尾張中村に生まれる。 |
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1564年 | 父清忠急逝。 |
1566年 | 津島に移る。 |
1569年 | 津島・妙延寺にて、読み書きを習う。 |
1573年 | 秀吉、長浜城主となる。 母に連れられ長浜に赴く。 7月 織田信長、将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼす。 |
1575年 | 5月 長篠の戦い。織田信長・徳川家康連合軍、武田勝頼を破る。 |
1576年 | 元服し、秀吉から加藤虎之助清正の名と170石を与えられる。 |
1577年 | 市足久兵衛という酒乱の足軽をからめとり、200石を加増され、小物見役に取り立てられる。 |
1580年 | 9月 加藤清正、羽柴秀吉より120石を与えられる。 |
1581年 | 6月 秀吉の鳥取城攻めに従い、蜂須賀正勝とともに功名を立て、100石を加増される。 |
1582年 | 4月 秀吉の備中高松城攻めに従い、支城である冠山城を攻めて感状を与えられる。 6月 山崎の合戦で、敵将近藤半助を討ち取り、「手柄者」の感状を与えられる。 6月 明智光秀、本能寺の変を起こして織田信長を滅ぼす。 ついで羽柴秀吉、山崎合戦で明智光秀を破る。 |
2016.04.14
年表
1583年 | 4月 羽柴秀吉、賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破る。加藤清正、「賤ヶ岳の七本槍」として活躍。 8月 清正、秀吉より3000石の加増を得る。 |
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1584年 | 3月 羽柴秀吉、織田信雄・徳川家康連合軍と小牧・長久手で対峙。 加藤清正、150人の軍勢を率いて従軍。 4月 長久手の戦いで撤退のしんがりを務める。 |
1585年 | 7月 羽柴秀吉、関白に就任。 |
1586年 | 9月 後陽成天皇、羽柴秀吉へ豊臣の姓を与える。 12月 豊臣秀吉、太政大臣に就任。 この間に加藤清正、主計頭の官途を得る。 |
1587年 | 3月 豊臣秀吉、島津家討伐のために九州へ出兵。加藤清正、170人の軍勢を率いて従軍。 6月 秀吉、島津家を屈服させて九州を国分けし、佐々成政へ肥後を与える。 9月 肥後で国衆一揆が勃発。鎮圧のために、周辺大名へ出兵を命じられる。 この間に加藤清正、一時的に讃岐の蔵入地代官を務める。 |
1588年 | 3月 加藤清正、豊臣秀吉の上使として肥後へ派遣され、検地を実施。 5月 清正、肥後半国拝領の内示を受け、肥後へ下向。 閏5月 清正、佐々成政の切腹を受けて、正式に肥後九郡19万5千石を拝領。 7月 豊臣秀吉、刀狩令を発布。 |
1589年 | 9月 天草で天草五人衆による一揆が勃発。加藤清正、小西行長と共に鎮圧へ向かう。 |
1590年 | 3月 豊臣秀吉、北条氏討伐のために関東へ出兵。 7月 豊臣秀吉、小田原城を攻略して北条氏を滅ぼす。 小田原攻めを終わった秀吉を岡崎で出迎え、故郷に立ち寄ることを進言し、自らも故郷中村に錦を飾る。 |
---|---|
1591年 | 8月 豊臣秀吉、朝鮮出兵の前線基地として肥前名護屋城の普請を企画。 加藤清正をはじめとする九州の諸大名にこれを命じる。 9月 朝鮮出兵の前線基地として肥前名護屋城の築城総指揮官を命じられ、突貫工事で翌年2月に完成した。 |
1592年 | 文禄の役が始まる。4月、加藤清正、釜山へ上陸。 |
1593年 | 加藤清兵衛駐留の吉州朝鮮の義勇軍に包囲され苦戦。清正救出に向かう。 清正軍 漢城に撤退 清正、秀吉の命により、朝鮮の二王子、大臣などを石田三成らに預け、三成はこれを沈惟敬に返還する。 7月 豊臣秀次、失脚して高野山へ追放され、自害。 |
1596年 | 5月 加藤清正、豊臣秀吉の命を受けて帰国。 7月 京坂地方に大地震。すぐ伏見城にかけつけ秀吉の勘気解ける。 9月 豊臣秀吉、大坂城で明使節と謁見。和平条件で折り合いが着かず、再び朝鮮出兵を計画。 11月 清正、朝鮮半島へ渡海するために熊本を出発。 |
1597年 | 12月 明・朝鮮連合軍が蔚山城を攻撃。清正、籠城して援軍を待つ。 |
1598年 | 1月 援軍の到着によって、明・朝鮮連合軍は撤退。加藤清正、九死に一生を得る。 8月 豊臣秀吉が死去し、朝鮮在陣中の諸将へ撤退が命じられる。 12月 清正、朝鮮出兵より帰国。 |
1599年 | 正月 石田三成、徳川家康の襲撃を計画。 2月18日 外征諸将と大阪城に会し、秀吉の葬儀を行う。 閏3月 加藤清正、福島正則たちと共に石田三成を襲撃。失脚に追い込む。 4月 清正、家康の養女(水野忠重の娘)を娶る。 |
1600年 | 5月 加藤清正の母・伊都が死去。 7月 石田三成と毛利輝元を中心とする西軍が挙兵。清正を西軍に誘う。 9月 美濃・関ヶ原で徳川家康を中心とする東軍と西軍が決戦。東軍が勝利。 9月 清正、木付城の細川勢を救援するために豊後へ出兵。 10月 清正、小西行長の留守を衝いて宇土城を攻略し、次いで柳川城を開城させる。 10月15日 関ヶ原の戦いの功により、家康から肥後54万石を与えられ、肥後守に任ぜられる。 11月 清正、黒田如水などと共に薩摩へ出兵。 清正、この年までに熊本城普請に着手。 また、豊国大明神を熊本へ勧請し、大坂の本妙寺を熊本城内へ移す。 嫡子忠広生まれる。 |
1601年 | 2月 加藤清正、旧小西行長領の継承を認められる。 2月 加藤清正、天草郡に替えて豊後三郡(海部・直入・大分)を拝領。 長女あま生まれる。 |
1602年 | 母いとの菩提のため常光寺(後の妙永寺)を建てる。 |
1603年 | 2月 徳川家康、征夷大将軍に就任。 3月 加藤清正、肥後守に任じられる。 10月 あまと頼宣(紀州徳川家)の婚約をする(元和3年結婚)。 |
1604年 | 9月 加藤清正、江戸幕府へ検地帳(御前帳)を提出。 |
1605年 | 4月 徳川家康、将軍職を子息・秀忠へ譲る。 |
1606年 | 3月 徳川家康、加藤清正をはじめとする諸大名へ江戸城普請を命じる。 8月18日 京都本圀寺で亡母の七回忌を行い、法華経一万部を読誦する。 |
1607年 | 2月 徳川家康、加藤清正をはじめとする諸大名へ駿府城普請を命じる。 この年、熊本城が完成。清正、隈本を熊本に改める。 |
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1608年 | 5月 加藤清正、安南国へ交易船を派遣して返事を得る。この年、清正、領内で総検地を実施。 |
1609年 | この年、加藤清正の娘・八十姫と徳川家康の子息・頼宣が婚約。 シャムおよび交趾と貿易する朱印状を受ける。 |
1610年 | 2月 徳川家康、加藤清正をはじめとする諸大名へ名古屋城普請を命じる。 |
1611年 | 3月 徳川家康、豊臣秀頼と二条城で会見。加藤清正、徳川頼宣に供奉して会見に参加。 5月 清正、肥後帰国に際して発病。 6月 清正、祈祷・治療の甲斐なく死去。享年50歳。子息の加藤忠広が跡を継ぐ。 |
1614年 | 10月 大坂冬の陣が起こる。 |
1615年 | 4月 大坂夏の陣が起こり、豊臣家が滅亡。 |
1616年 | 5月 中尾山へ本妙寺が移される。 |
1618年 | この年、加藤家で家臣団の内紛が勃発。 |
1632年 | 4月 加藤忠広の子息・光正、江戸で謀書事件を起こす。 6月 江戸幕府、加藤家を改易し、忠広を出羽庄内へ、加藤光正を飛騨高山へ配流する。 10月 細川忠利、加藤家改易後の肥後熊本へ移封される。 |
1633年 | 7月 加藤光正、配流先の飛騨高山にて死去。享年19歳。 |
1653年 | 閏6月 加藤忠広、配流先の出羽庄内にて死去。享年53歳。 |
2016.05.10
年表
2016.03.08
年表
2016.01.08
年表
加藤清正について
誕生 | 1562年6月24日 |
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出身地 | 尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区) |
名前 | 虎之助 → 加藤清正 |
父 | 加藤清忠 |
母 | 伊都 |
正室 | 清浄院(徳川家康の養女) |
側室 | 本覚院など |
子 | 忠広、あま姫、忠正など |
没年 | 1611年6月24日(50歳) |
加藤清正家紋 | 蛇の目と桔梗 |
兜 | 長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと) |
ゆかりの食べ物 | セロリ、キムチ |
主なゆかりの城 | 熊本城 名護屋城 名古屋城 江戸城 駿府城 |
年表出展(参考):生誕四五〇年記念展加藤清正など