織田信長年表
― 信長公の生涯をたどる ―
織田信長は織田信秀の二男として、1534年6月23日(天文3年5月12日)に、勝幡城で生まれました。生まれは那古野城という説もあったが、近年は勝幡城で生まれたという説が有力になっています。幼名は吉法師(きっぽうし)、13歳で元服し織田信長となります。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男として、2歳の時に那古野城主に。『信長公記』によると、幼少から青年時にかけて奇妙で大胆な行動が多いことから、「尾張の大うつけ」言われていたそうです。
信長の生まれた織田家はもともと尾張守護代としては、主流の家ではありませんでしたが、信秀の代から、主家の清洲織田氏(織田大和守家)や、尾張守護の斯波氏を凌ぐ勢いで台頭している時期でした。その背景には津島をはじめとする貿易による経済発展したことがあります。
また、今川氏へ人質として移動中だった徳川家康が、戸田康光の裏切りで織田氏に護送された時でもあり、2年間織田信長と徳川家康は幼少期を共に過ごすことになります。そして10年以上先、桶狭間の戦いで敵同士として戦い、後に清洲同盟を結ぶこととなります。
この時期のキーマンといえば、美濃国の斎藤道三は外せません。当時、聖徳寺において、初めて織田信長と会見した時、織田信長の才覚を見抜き、自分の娘・濃姫と結婚させます。その後、長良川の戦いで、斎藤道三と息子との親子戦が勃発すると、織田信長は義理の父・斎藤道三軍に加勢。しかし、道三が息子の斎藤義龍に敗北し戦死したことを知り、退却してしまいます。
このことがきかっけで弟の信行のほうが嫡男にふさわしいという声が上がり、柴田勝家ら家臣と対立していましたが失敗。1度目は許されましたが、2回めの暗殺を信行が企てようとしたことを、柴田勝家が織田信長に密告したことを機に、信行は暗殺されることとなり、家督争いは一旦終止符が打たれ、織田信長が尾張統一を果たしました。
その後、今川家の上洛(尾張侵略という説も)により、尾張が脅かされます。今川軍2万5000に軍勢に対し、織田家は2000の兵を引き連れ、桶狭間の戦いが起こります。港に面した大高城、鳴海城を占拠した今川軍を、奇襲攻撃で討ち取り、大金星を上げました。当時、徳川家康は大高城に食料を運ぶ役割をしており、危険な任務を完遂したところでしたが、今川軍の敗北により命からがら逃走しました。
ちなみに、織田信長はこの戦い以降、奇襲攻撃は一切行うことなく、軍勢を集め、諜略などを使って慎重に戦を行いました。
そしてますます勢力拡大し、近江の浅井長政と同盟を結び、妹の市を嫁がせます。しかし浅井長政の裏切りにより、金ヶ崎で命を失いかけるという危うい事態となりました。そこで姉川の戦いが勃発し、同盟を結んだ徳川軍とともに戦い勝利します。市の嫁いだ小谷城は燃え、浅井長政は自害、お市と娘3人は信長のもとに引き取られます。
領土の拡大と、同時に城作りという点でも、織田信長は革命家でもありました。
まず最初に小牧城を作り、初めて陣城機能だけでなく自身の権威を示す機能をもたせました。
そして岐阜城に入城し、誰も見たことのないような立派な城に大改築。この時初めて「天下布武」という言葉を使い、全国統一を宣言します。
天主に自分が住み、城の高さで家臣と自分の序列を示したり、政治的機能を持たせたのは、織田信長が初めてです。その城の立派さはルイス・フロイスも絶賛していました。
また楽市楽座など、民衆の経済を活発にし、税収を確保するという政治的な手腕にもすぐれ、町や道の発展に寄与し、将来的な戦のための準備としてもこれらが機能するように準備し始めます。
水路と京への近さから安土にも信長最後の城を建築し、岐阜城を上回る豪華な城でした。
その一方で、比叡山延暦寺の焼き討ち事件や浄土宗との長い戦いなど、賛否両論の政策もあります。
そして、中国地方を豊臣秀吉、北陸を柴田勝家などに任せ、全国統一まであと一歩というところで、家臣である明智光秀によるクーデター「本能寺の変」により、49歳でこの世を去りました。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男として、2歳の時に那古野城主に。『信長公記』によると、幼少から青年時にかけて奇妙で大胆な行動が多いことから、「尾張の大うつけ」言われていたそうです。
信長の生まれた織田家はもともと尾張守護代としては、主流の家ではありませんでしたが、信秀の代から、主家の清洲織田氏(織田大和守家)や、尾張守護の斯波氏を凌ぐ勢いで台頭している時期でした。その背景には津島をはじめとする貿易による経済発展したことがあります。
また、今川氏へ人質として移動中だった徳川家康が、戸田康光の裏切りで織田氏に護送された時でもあり、2年間織田信長と徳川家康は幼少期を共に過ごすことになります。そして10年以上先、桶狭間の戦いで敵同士として戦い、後に清洲同盟を結ぶこととなります。
この時期のキーマンといえば、美濃国の斎藤道三は外せません。当時、聖徳寺において、初めて織田信長と会見した時、織田信長の才覚を見抜き、自分の娘・濃姫と結婚させます。その後、長良川の戦いで、斎藤道三と息子との親子戦が勃発すると、織田信長は義理の父・斎藤道三軍に加勢。しかし、道三が息子の斎藤義龍に敗北し戦死したことを知り、退却してしまいます。
このことがきかっけで弟の信行のほうが嫡男にふさわしいという声が上がり、柴田勝家ら家臣と対立していましたが失敗。1度目は許されましたが、2回めの暗殺を信行が企てようとしたことを、柴田勝家が織田信長に密告したことを機に、信行は暗殺されることとなり、家督争いは一旦終止符が打たれ、織田信長が尾張統一を果たしました。
その後、今川家の上洛(尾張侵略という説も)により、尾張が脅かされます。今川軍2万5000に軍勢に対し、織田家は2000の兵を引き連れ、桶狭間の戦いが起こります。港に面した大高城、鳴海城を占拠した今川軍を、奇襲攻撃で討ち取り、大金星を上げました。当時、徳川家康は大高城に食料を運ぶ役割をしており、危険な任務を完遂したところでしたが、今川軍の敗北により命からがら逃走しました。
ちなみに、織田信長はこの戦い以降、奇襲攻撃は一切行うことなく、軍勢を集め、諜略などを使って慎重に戦を行いました。
そしてますます勢力拡大し、近江の浅井長政と同盟を結び、妹の市を嫁がせます。しかし浅井長政の裏切りにより、金ヶ崎で命を失いかけるという危うい事態となりました。そこで姉川の戦いが勃発し、同盟を結んだ徳川軍とともに戦い勝利します。市の嫁いだ小谷城は燃え、浅井長政は自害、お市と娘3人は信長のもとに引き取られます。
領土の拡大と、同時に城作りという点でも、織田信長は革命家でもありました。
まず最初に小牧城を作り、初めて陣城機能だけでなく自身の権威を示す機能をもたせました。
そして岐阜城に入城し、誰も見たことのないような立派な城に大改築。この時初めて「天下布武」という言葉を使い、全国統一を宣言します。
天主に自分が住み、城の高さで家臣と自分の序列を示したり、政治的機能を持たせたのは、織田信長が初めてです。その城の立派さはルイス・フロイスも絶賛していました。
また楽市楽座など、民衆の経済を活発にし、税収を確保するという政治的な手腕にもすぐれ、町や道の発展に寄与し、将来的な戦のための準備としてもこれらが機能するように準備し始めます。
水路と京への近さから安土にも信長最後の城を建築し、岐阜城を上回る豪華な城でした。
その一方で、比叡山延暦寺の焼き討ち事件や浄土宗との長い戦いなど、賛否両論の政策もあります。
そして、中国地方を豊臣秀吉、北陸を柴田勝家などに任せ、全国統一まであと一歩というところで、家臣である明智光秀によるクーデター「本能寺の変」により、49歳でこの世を去りました。
1534年 | 5月 織田信長は尾張勝幡城主織田信秀の次男として誕生。 生母は土田氏。童名は吉法師。 |
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1536年 | 2月6日 豊臣秀吉誕生。 |
1542年 | 父の信秀より那古野城(後の名古屋城)を与えられる。 信秀自身は翌年に古渡城を築き居城。 12月26日 徳川家康誕生。 |
1546年 | 元服して織田三郎信長を名乗る。 |
1547年 | 初陣として、駿河今川義元方の三河の吉良大浜城攻略のため出陣。 その出立ちには、紅筋の頭巾と馬乗りの羽織を着用している。 後見役には平手政秀が務めた。 |
1548年 | 11月頃 信秀と美濃の斎藤道三の間に和睦が成立し、織田信長が斎藤道三の娘濃姫を娶ることになる。 |
1549年 | 11月 尾張に抑留されている松平竹千代(後の徳川家康)と信広を交換する。 |
1552年 | 3月 父の信秀(四十一歳)が流行の悪病にかかり末盛城で没した。 家督は信長が嗣ぎ、弟の勘十郎信勝が末盛に入城。 4月17日 赤塚の戦い 激戦を繰り広げるが勝敗は決せず。 |
1553年 | 1月13日 傅役の平手政秀、織田信長を諌めて自殺する。 のち、織田信長は政秀の所領小木村に政秀を弔うため政秀寺を建立した。 4月下旬 斎藤道三と、濃尾国境に近い富田の聖徳寺で会見する。 |
1554年 | 1月 暴風の中を知多半島西岸に渡海して緒川に着陣。村木城を陥れる。 |
2016.07.18
年表
2016.05.06
年表
1554年 | 5月 叔父孫三郎信光と謀り、守護代織田彦五郎信友を殺害し、清洲城を奪って居城。 叔父信光に那古野城を譲る。 |
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1556年 | 4月 斎藤道三、末子に遺言状を与え美濃国を織田信長に譲る旨を告げる。 斎藤道三、子の義龍と長良川で戦い敗死する。 織田信長、道三救援のため美濃に出馬するが道三の死去を聞き帰国する。 8月24日 稲生の戦い 織田信長、稲生の村はずれで林・柴田と戦い撃破する。 25日 生母土田氏の嘆願により、弟の信勝・林・柴田らを赦免。 |
1558年 | 7月 岩倉城主織田信賢を攻めて、犬山城主の織田信清とともに浮野で戦って撃破する。 11月 弟の信勝、岩倉城主織田信賢と結び再度織田信長に背く。 織田信長、病と偽り信勝を清洲城に誘殺する。 |
1559年 | 2月2日 上洛。足利義輝に謁見。 この年、岩倉城を攻めて落城させる。 岩倉落城によって織田信長の尾張統一がほぼ実現。 |
1560年 | 5月16日 今川義元出陣 今川義元、兵一万を率いて駿河から三河の岡崎に着城。 5月19日 義元、桶狭間山に陣取る。 織田信長、未明に清洲城を発ち、昼過ぎに義元を討つ。 |
1561年 | 三河の松平元康(徳川家康)と和睦。 |
1562年 | 1月15日 清洲同盟 清洲城で松平元康と会見し、互いに誓書を交換して正式に同盟を結ぶ。 |
1563年 | 小牧山築城 小牧山に築城し、家臣に移住を命ずる。 |
1565年 | 9月 武田信玄と同盟 養女の信玄の子勝頼との縁組を申し入れる。 |
1567年 | 稲葉山城下の井の口を岐阜と改め小牧山から居城を岐阜城に移した。 岐阜移城の直後から「天下布武」の朱印を使用。 近江の浅井長政と同盟を結び、その妹(一説には従姉妹)のお市を嫁がす。 |
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1568年 | 2月には上洛の背後固めとして、北伊勢を攻略。 9月26日 織田信長、足利義昭を奉じて上洛。 9月29日 畿内の大和・山城・摂津・河内の大方をその支配下に収める。 |
1569年 | 4月8日 ルイス・フロイスと会見。 |
1570年 | 4月20日 早朝、朝倉義景討伐のため京を発す。 4月25日 浅井長政離反 すぐさま撤退を決意。 28日夜、織田信長は木下秀吉を金ヶ崎城に留めて退却。 6月19日 浅井長政討伐のため、岐阜城を出陣。 24日 援軍の徳川家康と共に、竜ヶ鼻に移陣。 6月28日 数刻に渡る激戦のすえ、朝倉・浅井軍も総崩れとなり敗走。 横山城を陥れ、木下秀吉を置く。 12月14日 天皇および将軍の調停により、織田信長と義景が和睦。 |
1571年 | 5月 伊勢長島攻め 戦況が進展しないまま退却。 9月 諸将に比叡山の焼き討ちを命じる 9月 明智光秀に滋賀郡を与え坂本城主とした。 |
1572年 | この頃の反織田信長戦線は、本願寺を軸に北の朝倉・浅井両氏、南の松永・三好両氏、さらに本願寺との姻戚関係から甲斐の武田信玄も加わり、織田信長の大包囲網が形成されていた。 12月 織田・徳川連合軍、遠江三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗する。 家康は命からがら浜松に敗走し、織田信長の宿老平手汎秀が戦死。 大勝利した信玄はさらに三河に侵入し、ついで織田信長の領国尾張を目指して西上作戦を続けていた。 |
1573年 | 4月 武田信玄が病没。 7月3日 足利義昭、御所を側近の三淵藤英に守らせ、自らは宇治の槙島城に立て籠もり再び挙兵する。 7月 足利義昭、河内の若江城に追放。事実上室町幕府は滅亡した。 7月28日 朝廷、織田信長の奏請により「天正」と改元。 8月 浅井長政討伐に向う。 浅井氏救援のため近江に進出してきた朝倉義景と激戦を繰り返したが、撃退。 敗走する義景を追撃して朝倉氏の部将や斎藤龍興らの首三千余を討ち取る。 府中まで一挙に侵入した織田信長の進軍をみて、義景は居城の一乗谷を棄て大野郡の山田庄賢松寺に逃れ、ついに20日に自刃。 9月 小谷城が落城する。浅井氏の滅亡により、その旧領は木下(この頃に羽柴と改姓)秀吉に与えられた。 長政室の小谷の方(お市の方)と子の三姉妹は落城直前に救出された。 9月24日 伊勢長島の一向一揆討伐ため岐阜を出陣し、その後一カ月に及ぶが、大きな戦果はなく岐阜に帰城する。 11月4日 佐久間信盛を遣わして、河内の若江城に三好義継を攻めて滅亡させる。 |
1574年 | 3月27日 勅許を得て東大寺正倉院の名香木「蘭奢待」(らんじゃたい)を賜る。 織田信長にとって室町将軍に代わって天下を掌握したことを世に知らしめる意味もあったであろう。 9月 伊勢長島一向一揆平定。 |
1575年 | 4月14日 大坂の本願寺を攻撃。 4月 武田勝頼が信濃から三河に侵入し、徳川家康の属城長篠城を攻略中であった。 家康からの援軍要請によって兵馬を休める暇もなく救援に向かう。 5月13日 織田信長父子、岐阜を出陣。 織田・徳川連合軍、馬防柵を築き大量の鉄砲隊を駆使して武田軍の騎馬隊を大破する。 武田軍は信玄以来の重臣が多数戦死し、勝頼は命からがら甲斐へ敗走。 越前一向一揆討伐。 10月 大阪の本願寺から講和を求めてきたため、織田信長は10月21日に受諾する。 11月 信忠を東美濃に派遣して、岩村城を陥れ武田勢を敗走させる。 11月28日 岩村城攻略における信忠の目覚ましい活躍ぶりを眼の当たりにした織田信長は、信忠に岐阜城を与え、家督の譲与を表明する。 |
2015.12.04
年表
1576年 | 安土築城 築城は正月中旬より始められ、織田信長は早くも翌2月25日に岐阜から移っている。 時を同じくして京都でも押小路室町の関白二条晴良邸の跡地に、本格的な京都屋敷の造営が起工されていた。 5月 織田信長は自ら出馬して河内の若江城に入り、7日に四天王寺の一揆勢を大破する。これ以後一向宗門徒は石山に籠城、織田信長は経済封鎖して兵糧攻めの 長期持久戦に持ちこんだ。 7月13日 毛利輝元、水軍七、八百艘を送り、織田水軍三百艘を木津川の河口に撃破して石山本願寺に兵糧を運び入れる。 |
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1577年 | 3月1日 雑賀の鈴木孫一の居城を一斉攻撃する。 15日、鈴木孫一ら一揆の指導者七人が誓紙を提出して降伏する。 7月6日 上京し新造の二条屋敷に正式に入居する。 10月1日 岐阜の信忠に命じて松永久秀を討伐させる。 10月23日 羽柴秀吉が中国遠征のために京都を発ち播磨に出陣する。 播磨に侵攻した秀吉は姫路城将の黒田孝高を先導役として、味方する国衆の人質を取り、またたく間に西播磨を支配下に置き、ついでに但馬にも攻め入り、山口・竹田両城を陥れた。 |
1578年 | 6月 九鬼嘉隆率いる甲鉄船六艘、和泉淡輪の沖で一向宗門徒の船を大鉄砲によって撃破する。 甲鉄船の出現によって大坂湾の制海権は織田信長に握られ、本願寺はその補給路を遮断された。 10月 摂津守護の有岡(伊丹)城主荒木村重、本願寺・毛利氏と密約を結び織田信長に背く。 11月6日 摂津木津川口の海戦で、九鬼嘉隆が率いる甲鉄船六艘が毛利氏の軍船六百艘を撃破する。 11月14日 有岡城の総攻撃を命じる。 |
1579年 | 9月15日 徳川家康に命じてその子信康を切腹させる。 またこの間の8月29日には、正室築山殿を遠江の富塚において殺害している。 |
1580年 | 羽柴秀吉、播磨の三木城を陥れ別所長治を切腹させる。 ほぼ播磨が平定される。 3月 朝廷の斡旋により、織田信長、本願寺と和議を結ぶ。 8月 本願寺は、折からの西風に煽られた松明(たいまつ)の火によって火災を起こし、焼け落ちてしまった。 織田信長が足利義昭を奉じて上洛して以来、悩まし続けられた本願寺・一向一揆との石山合戦はここに終結を迎え、ようやく勝利を勝ち取ったのであった。 8月 佐久間父子追放。 |
1581年 | 8月 能登国を前田利家に与える。 9月 伊賀平定 織田の大軍によって瞬く間に平定され、信雄と信包の分国となった。 |
1582年 | 甲斐侵攻 武田勝頼は、夫人・嫡男信勝と共に自刃。ここに名門武田氏は滅亡した。 5月29日 本能寺に入る。 6月2日 早暁、明智光秀本能寺を囲み織田信長を急襲する。 織田信長は自ら弓・槍をもって防戦するが、自刃して果てる。 |
2015.12.07
年表
織田信長について
誕生 | 1534年5月21日 |
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出身地 | 尾張国勝幡(愛知県愛西市・稲沢市) |
名前 | 吉法師 → 織田信長 |
父 | 織田信秀 |
母 | 土田氏 |
正室 | 濃姫(斎藤道三の娘) |
側室 | 吉乃(生駒家宗の娘)、坂氏など |
子 | 信忠、信雄、信孝、秀勝、徳姫など | 兄弟姉妹 | 織田信広、織田信行、織田信包など | 没年 | 1582年6月2日(49歳) |
辞世の句 | 辞世の句「是非に及ばず」 |
徳川家康家紋 | 織田木瓜 |
兜 | 伝織田信長所用紺糸威胴丸具足など | 主な政策 | 楽市楽座/関所の廃止/撰銭令 | ゆかりの食べ物 | 湯漬け、干し柿、焼き味噌 |
主なゆかりの城 | 勝幡城 清須城 小牧城 岐阜城 安土城 |
年表出展(参考):織田信長総合辞典