どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2015.12.04
岐阜という名前をつけたのは織田信長であり、来年2016年は岐阜城へ入城450年。
とりわけ岐阜城のある岐阜市にとって織田信長は「おらが殿」なのだと思います。
JR岐阜駅前の金ピカの銅像で、笑われたりすることもあるとは思いますが…
そんな天下布武という言葉を使い始めた岐阜の、岐阜市歴史博物館の土山さんにお話を聞いてきました。
尾張出身の織田信長が美濃に入ってきたのは、斎藤道三の娘と結婚したから。ある意味斎藤家ファミリーのいち員として岐阜に入れたので、それほど苦労なく地元に溶け込めたのかもしれません。特に親交があったのは、臨済宗の僧侶たち。
臨済宗の僧侶は当時の中国文学のエリートであり、高い教養を身に着けている存在。
土山さんに「天下という言葉を使った人は織田信長より前にいましたか?」
と聞かれ、そういえば・・・と思いました。
たしかにそれ以前に天下という概念がなかった。のです。
実は「天下布武」という言葉、その中国文学の中の「業界用語」みたいなものだったと教えていだきました。
僧侶と進行があった側近たちにその話を聞き、天下布武という言葉を明言したのではないかと。
そんな業界用語を知ることも、また聞いたからといって理解することもある程度教養がないとできません。
織田信長は、うつけものいうイメージでもありますが、尾張織田家の嫡男として高い教養を身に着けていなければできないことです。かなり知的な人だったと推測されます。
岐阜という言葉もしかり。この言葉も中国文学の中から取り、命名しました。ほとんど中国文学の中の一節が元にコピーを作ったのですね。
ある意味、それは言葉を選ぶセンスでもあり、表現のセンスなのではないかと思います。
当時はそこまで中国文学に詳しい大名はそう多くなかったはず。たまたま慕っていた沢庵など周囲には僧侶が多く、そのたしなみがあった。そしてそれを一般化することができる翻訳能力有った。織田信長は現代なら、プランナーみたいなこともできたのかもしれません。
そんな第六天魔王という残虐なイメージ、うつけものという周囲からのレッテルからは想像しにくい話。
しかし、岐阜と名付けた地名は450年も経化した今でも使われ、天下布武はその後の天下統一という概念の祖となりました。
やっぱり織田信長のセンス、スゴいなと思いました。
岐阜市の歴史を紹介する博物館。織田信長を始め、鵜飼やその他の時代など幅広い歴史展示を扱っています。
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
岐阜県の記事
織田信長の記事
バックナンバー記事
この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています