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武将愛 SAMURAI HEART

豊臣秀吉年表

― 秀吉公の生涯をたどる ―

豊臣秀吉
豊臣秀吉年表 秀吉公の生涯をたどる
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)、羽柴 秀吉(はしば ひでよし)と名前を変え、農民から大名、最終的には天下人にまで登りつめた、戦国時代・安土桃山時代に活躍した武将。「戦国一の出世頭」ともいわれている。あだ名は猿、馬印は、金瓢箪。兜は、一の谷馬蘭兜。城主経験のある城は長浜城、大阪城。有名な戦いは、備中高松城の戦い、墨俣の一夜城、中国大返し、清州会議、美濃の大返しなどが有名。織田信長・徳川家康と並び三英傑と言われる。

生まれは尾張国愛知郡中村郷の下層民の家で、身分は農民だった。13歳の時に今川家・家臣の松下之綱の元奉公に行くも、3年後出奔。17歳で織田信長に小者として仕官し、清洲城の普請奉行、台所奉行などを進んで引受け、大きな成果を上げ出世していく。24歳で浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚。その後は木下性を名乗り、秀吉の出世に拍車がかかる。

1570年の浅井長政の裏切りにより起きた金ヶ崎の戦いで、殿(しんがり)を務め、織田信長を見事守り切り、大手柄をあげた。羽柴秀吉として、姉川の戦いで浅井・朝倉家が滅亡すると、1573年初の城持ち大名として長浜城の築城を行う。秀吉にとってこの城は初の自分の城だった。その当時は、中国地方の毛利との戦いに総大将として、中国地方の攻略を担当し、有名な備中高松城の戦いの水攻めなどで武功をあげ続けた。中国攻めの最中に、本能寺の変で織田信長が敗れたのを知り、「中国大返し」により京に戻り、山崎の戦いで光秀を破り、織田信長の仇を討つことに成功。

清須会議では信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝利し、翌年、賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤清正などの七本鎗の活躍もあり、柴田勝家を破り、豊臣秀吉は名実ともに織田家のトップに君臨。

小牧・長久手の戦いでは徳川家康と織田信雄軍と対決するが、事実上の敗北。しかし和睦の結果、徳川家康を自分の家臣として従わせることになった。その後も大阪城の築城、刀狩り・太閤検地などの全国当地を行い、関白・太政大臣に就任。天下統一させる。朝鮮出兵した文禄・慶長の役中に、息子・秀頼を五大老の徳川家康に託し、伏見城にて病死。61歳でこの世を去る。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。全国の豊國神社に祀られており、大阪では現在の大阪の基礎を作ったとして、「太閤さん」と呼ばれ現代でも広く親しまれている。

出生 1537年 [天文6年(誕生)]

1534年 5月 信長、尾張国那古屋城に出生
1537年 2月6日 秀吉、尾張国中村に出生(父は木下弥右衛門、母はなか)
1542年 12月26日 家康、駿河国岡崎城に出生
1543年 8月 ポルトガル船、種子島に至って鉄砲を伝える
1548年 おね(蒲)、杉原定利の次女として生まれる。
1549年 7月 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に至る(キリスト教伝来)
1551年 この頃秀吉、今川義元の家臣松下之綱に仕える
10月 ザビエル日本を去る
1554年 この頃秀吉、織田信長に仕える。 この頃から木下藤吉郎と名のる
1560年 1月 幕府、ガスパル・ビレラに布教を許可
5月 信長、桶狭間で今川義元を破る
1561年 この頃秀吉、浅野家の養女おねと結婚する
1563年 この年秀吉、普請奉行となって清洲城修築
1565年 信長、美濃坪内氏に朱印状を発給し、秀吉、副状を発行(秀吉文書初見)
5月 足利義輝、三好義継・松永弾正らに殺される
1566年 秀吉、美濃に進み墨俣の築砦に著功をたっ
1568年 9月26日 信長、足利義昭を擁して入京
10月 信長、諸国の関所を廃する
1569年 この年秀吉、京都奉行の任につく
4月 信長、ルイス・フロイスの京都居住を許可
1570年 6月 信長・家康、浅井長政を近江姉川で破る
9月12日 本願寺挙兵、石山合戦はじまる
1571年 9月 信長、延暦寺を攻め諸堂を焼く
12月 三方原の戦い(武田信玄、家康を破る)
1572年 7月 信長、浅井長政を攻める(秀吉参戦)
1573年 4月12日 武田信玄没す
7月18日 信長、将軍義昭を追放(室町幕府滅亡)
8月 信長、朝倉・浅井両氏を亡ぼす
9月 信長、長島一撲を攻撃。秀吉、浅井氏攻略の功により、
その所領二十二万石を与えられ、小谷城主となる。この頃より羽柴筑前守秀吉となのる
   

出世 1573年 [元亀4年(36歳)]

1574年 3月 秀吉、今浜(現在の長浜)に築城する
1575年 5月 信長・家康連合軍、長篠に武田勝頼を破る
8月 信長、越前の一向一撲を制圧し門徒を皆殺しにする
1576年 2月 信長、近江安土に築城
7月 毛利氏、本願寺に食糧を補給
1577年 10月 秀吉「毛利征伐」の総司令官に任命され大軍を率いて西下、
姫路城に入る。播磨・備前・美作・但馬・因幡五国を平定
1580年 本願寺、信長に屈し講和成立、石山合戦終る
4月 顕如、石山本願寺を退去。 教如は残留
8月 教如、石山本願寺を退去。 伽藍寺内町全焼
11月 柴田勝家 加賀一撲を鎮圧
1582年 6月2日 本能寺の変、信長自刃する。高松城攻め中の秀吉、毛利氏と和睦
6月13日 秀吉、山崎合戦に明智光秀を破る
同27日 清州城に諸将が会して信長の後継と遺領配分を決める。
秀吉は山城・丹波を領有
   

天下 1583年 [天正11年(46歳)]

1583年 4月 秀吉賎ケ岳合戦で柴田勝家を破る(秀吉の覇権確立)
6月 秀吉、大坂城に入る
8月 秀吉、大坂城の大修築に着手。伊勢の滝川一益、秀吉に降る
1584年 小牧・長久手の戦(3~11月) 秀吉、織田信雄・徳川家康と戦う
この年から検地にとりかかる
12月 秀吉、家康と和を約す
1585年 3月 秀吉、根来・雑賀の一撲を征庄
7月 秀吉関白となる。この年四国・北陸・中部地方を平定
1586年 1月 家康、秀吉に臣従を誓う
2月 秀吉、大坂城石垣工事の石運び捷を出す
5月 家康、秀吉の妹(南明院)をめとる
12月 秀吉、太政大臣となり豊臣姓を授かる
この年、衆楽第の築城開始
   

晩年 1598年 [慶長3年(享年62歳)]

1587年 3月 秀吉、九州平定のため大坂を発つ
5月 島津義久、秀吉に降る
6月 キリスト教禁教令発布
10月 秀吉、北野に大茶会を催す。 この年、天正通宝鋳造さる
1588年 4月 後陽成天皇、衆楽第に行幸
5月 秀吉、京都東山に方広寺大仏殿建立
7月 刀狩令発布 この年、大小判鋳造
1589年 5月 淀殿、鶴松(お捨)を生む
9月 秀吉、諸大名に妻子の在京を命ずる
1590年 6月 ポルトガルの宣教師ヴァリニャーノ、遣欧使節を伴って来日
11月 秀吉、朝鮮の使を衆楽第で引見
「小田原征伐」北条氏亡ぶ。東北地方平定、全国統一なる
1591年 閏正月 ヴァリニャーノ、衆楽第で秀吉に謁見
ポルトガル国インド副王ドン・ドワルテの国書奉呈
2月 千利休自刃する
8月 鶴松病没
9月 秀吉、朝鮮征伐を命ずる
12月 秀吉、関白職を秀次に譲り、太閤と称す この年諸国に検地
1592年 1月 第一次朝鮮出兵(文禄の役)
3月 秀吉、肥前名護屋城へ向う
7月 大政所没す。この年六十六カ国人掃い令を出す
1593年 6月 明と講和
8月 秀頼誕生
1594年 2月 秀吉、秀次と吉野に花見する
3月 伏見築城、大坂城惣構を築く
1595年 7月 秀吉、秀次を高野山に追放自殺さす。諸大名血判起請文を提出
1596年 9月 秀吉、明使を大坂城に引見、その無礼を怒り追い返す。秀吉、朝鮮再征を決す
1597年 1月 第二次朝鮮出兵(慶長の役)
1598年 3月 秀吉、醍醐に花見を催す
8月18日 秀吉、伏見城に病没。在韓の諸将召還される
この年、大坂城普請(~翌年3月)
1599年 1月 秀頼、秀吉の遺命により大坂城に入る
1600年 9月 関ケ原合戦、石田三成・小西行長ら敗れる
1605年 この年、京都東山に高台寺建立さる
1614年 10月 大坂冬の陣
12月 和議成る
1615年 4月 大坂夏の陣
5月7日 大坂城落城
翌8日 淀殿・秀頼母子城内で自刃
1616年 4月17日 徳川家康没す
1620年 1月 徳川幕府、西国北国諸大名を動員して大坂城再築を始める
1624年 9月 高台院(秀吉の妻おね、北政所)没す
1629年 この年再築大坂城成る
1634年 9月 秀吉側室松の丸殿没す

豊臣秀吉について

誕生 1537年2月6日
出身地 尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)
名前 木下藤吉郎 → 羽柴秀吉 → 豊臣秀吉
木下弥右衛門
なか(大政所)
正室 おね(北政所)
側室 茶々など
鶴松(お捨)、秀頼、秀次、秀勝(信長養子)など
兄弟姉妹 秀長 旭姫、とも
没年 1598年8月18日
辞世の句 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
豊臣秀吉家紋 五七の桐、太閤桐など  五七の桐
馬藺後立付兜(ばりんうしろだてかぶと)
主な政策・
出来事
墨俣の一夜城、中国大返し、清州会議、太閤検地、刀狩令、身分統制令、全国統一、朝鮮出兵 など
ゆかりの食べ物 ごぼう、鴨、真盛豆、長五郎餅、平野酒、天野酒、ひき割り粥 など
主なゆかりの城 墨俣城  小谷城  長浜城
姫路城  大阪城  伏見城

織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 関係図

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資料提供:名古屋市秀吉清正記念館