続100名城を巡る「滝山城」
2024.11.28
2021.04.02
豊臣秀吉の小田原城攻めに籠城というかたちで対抗した北条氏直。
結果的に自ら城を出て秀吉に降伏しました。
氏直は、自分の命と引き換えに城に残っている人たちの命を助けてくれるよう秀吉に申し出た結果、
戦いで失った約1,000人の兵以外のすべての人が無事に城から出ることができました。
そして城主 氏直の命も助かったのです。
それはなぜでしょうか。
北条氏の籠城は、兵たちだけではなく町民や農民など多くの民を城の中に囲いました。
そのため秀吉は、すぐに城を攻撃することはできなくなりました。
そこで秀吉の軍は東西、北と陸地から、さらに海にも海軍を置き、氏直たちがどこからも逃げ出ることができないよう包囲しました。
籠城から降伏するまでには約100日間。
秀吉軍は、大軍を引き連れていたので、多くの民が城内にいたとしても、もう少し早く城を落とすことができたはずですが、なぜそんなに時間がかかったのでしょうか。
「小田原城」を包囲された氏直には、とっておきの味方がいました。
それが東北最強の伊達政宗の軍です。
氏直は秀吉の軍に包囲されても、籠城で時間をかければ、伊達の軍が北から秀吉の軍を倒し、小田原城まで来てくれるだろうと思っていました。
「小田原城」はその周りをぐるりと約9㎞の外郭で囲まれています。
お城だけではなく、城下町や侍町も含めて囲っていたのです。
これは、のちに造られた城の見本にもなったほど強い城づくりの方法と言われているほど。
このような堀で城内を守っていたのです。
そのため秀吉の軍もなかなか攻撃ができずにいました。
「小田原城」の総構は3年間くらいは籠城できると思われていたのですが、当てにしていた伊達政宗は、秀吉に寝返ってしまったため氏直は降伏するしか道がありませんでした。
(甲冑:後頭部が盛り上がる阿古蛇形風の小田原鉢)
氏直は、残っているすべての人を助けてもらうことを願い出て、代わりに自分の命を差し出すと申し出ました。
秀吉にその申し入れを受け入れてもらうと、城内にいた民や兵の命は助かりました。
しかし無念にも氏直の父である氏政、叔父にあたる氏輝、さらに重臣2人が切腹となってしまい、自分だけが助かってしまったのです。
氏直は、300人ほどの家臣とともに紀州高野山に島流しのようなかたちになりました。
氏直の命が助かったわけ
じつは氏直の妻であり正室の督姫は、徳川家康の次女でした。
そのため秀吉は、すでに大きな力を持っていた家康への心づかいで、娘の婿である氏直を救ったと言われています。
「小田原城」を失った北条氏は、高野山への追放の翌年に亡くなり、戦国大名北条氏の関東支配は約90年で終わることとなりました。
戦国時代の小田原北条の5代に渡る支配は、江戸時代につながる重要な拠点であり、また北条氏直の秀吉の攻めに対抗した籠城、総構はお見事です。
「小田原城」では秀吉が家康に相模、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸、合わせて二百四十万石を与えるといったとか。
「小田原城」のどのあたりでその言葉を発したのでしょうね。
そんなことを想像しながら「小田原城」天守閣最上階の展望台で景色を観てはいかがですか?
神奈川県小田原市城内3-22
小田原駅より徒歩10分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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