100名城を巡る「金山城」
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2021.04.02
2016年に平成の大改修が終了し、リニューアルした小田原城。
小田原駅からのアクセスをこちらの記事でご紹介しましたので、
城内の資料は撮影可のものもありましたので、その画像とともにご紹介していきます。
今から約430年前。
豊臣秀吉がまもなく全国を統一しようかという寸前の小田原は、そうそうたる武将が秀吉側について小田原を攻め落とそうとしていました。
豊臣秀吉側の勢力は、徳川家康をはじめ、織田信雄、豊臣秀次、石田三成、池田輝政、浅野長政、加藤清正、前田利家、上杉景勝、真田昌幸など約22万人。
その勢力は圧倒的なものでした。
豊臣秀吉は関東に勢力を持つ小田原北条氏を、少しでも早く傘下にしようと、いろいろなプレッシャーをかけて手を打ちましたが、北条氏は、なかなかなびきませんでした。
そうこうしているうちに、沼田城代の北条氏家臣である猪俣邦憲が、城主が真田昌幸である名胡桃城の城代鈴木重則家臣中山九郎兵衛を寝返らせて、名胡桃城を占領してしまったのです。
真田昌幸はこのことを家康に報告し、徳川家康は秀吉にそのことを告げました。
秀吉は、自分に断りなく合戦をしたり、大名同士で婚姻をしあったりしたらいけないというお触れをだしていたにもかかわらず、このような事件が起こったため、このことを口実にして、小田原城を攻めることにしました。
豊臣秀吉は、小田原城攻めのため15万人ほどの武将を引き連れて小田原方面に向かいました。
その先陣をきったのは徳川家康の軍です。
秀吉は小田原城を包囲するために、北陸方面の司令塔に前田利家を起用して約3万人の兵を引き連れ北関東を侵略しました。
また海の方からも、食料調達とともに攻め入り、小田原城は西も東も北も、そして海からもぐるりと囲まれた状態になってしまいました。
北条氏の小田原城は、その周囲が約9kmありました。
北条氏は、その囲いの中に小田原の町民や農民も含め、すべての人々をいれて立て籠もりました。
秀吉は、箱根湯本にある早雲寺辺りまで来た時にそのことを知ると、すぐに攻め込むことは不可能であると考え、石垣山に城を築きました。
これが石垣山一夜城とよばれる城です。
(小田原城天守からみる石垣城跡画像中央あたり)
秀吉は、小田原城を眺めながら約100日間ここに滞在し、攻め入る準備をしました。
滞在した100日間のあいだ、秀吉は石垣城に淀殿や千利休、能楽師などを呼び寄せ、楽しみつつ北条氏の出方を待ちました。
そしてついに北条氏側にいた伊達家が秀吉方に寝返りました。
もはやこれまでと思った北条氏直は、自らお城を出て自分の命と引き換えに、籠城した自分以外の農民や町民などを助けてくれるように願い降伏しました。
このようにして秀吉は小田原を制し、その名を関東にまで知らしめました。
そして秀吉が小田原攻めの陣中で家康に、
「関八州をやろう」
と申し出たことが、家康の江戸づくりの始まりとなりました。
神奈川県小田原市城内3-22
小田原駅より徒歩10分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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