名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.04 大天守 其の四
2025.03.29
2015.12.01
中村区の豊国神社は、豊臣秀吉誕生の碑と加藤清正記念館の間にあります。
有名な戦国武将2名の名前が出てくるだけでも、ここは何かある!と感じます。
お祀りしている豊臣秀吉公について、豊国神社の近藤宮司にお話を伺ってきました。
農民出身の豊臣秀吉は中村区の豊国神社隣にある、誕生の碑のある場所で生まれたと言われています。
最初は浜松の松下家に奉公に行き、18歳で地元に戻ってきます。ちなみに松下家は今川家の家臣の家です。
その後、織田信長の小者として仕官し、台所奉行など人の嫌がる仕事を率先して引受け、成果をあげ名を広げて行きます。
知恵と努力の賜物が地位を作ったのではないでしょうか。
人たらしと呼ばれ、すぐれた交渉力を持つ所以は、染め物の原料の灰や油を商い馬借業で財をなした生駒屋敷。ここに出入りしていたことで身についた、商売人の感覚が活きているのではないかと、宮司さんはおっしゃっていました。
当時の武士の社会の中では、交渉や人心掌握術などはあまる必要とされなかったのかもしれません。それは、やはり身分が違うところから、武士の世界に入ってきた秀吉ならではのものだったのかも。
出世の華々しさは、やはり農民から天下人という振り幅を考えても、豊臣秀吉なのかなと個人的には思います。
豊臣秀吉は織田家の家臣としてどんどん出世していき、最終的には天下人となりますが、最後まで母親、兄弟など家族を大事にしていました。
その理由は、やはり自分の身分が農民出身であることだったり、また調略を繰返しているためなかなか人を信用出来ない部分も多かったのかと推測されます。
母親のことも大事にしていましたが、実は母親への情はそれほどなく「パフォーマンス」だった可能性もあるとのこと。
今でもそうですが、良い経営者は家族を大事にしているイメージがありませんか?
家族を大事にしないリーダーは、部下から信用されない気がします。そのため、本心はどうあれ、親孝行であり、家族を大事にするというイメージを保っていたのかもしれません。
自分の妹と母親は、徳川家康に上洛を促すとき、人質として送り込んでます。
この面を見ると豊臣秀吉は家族であろうとなかろうと、わりとドライだったのかもしれないですね。
ちなみに神社の隣に誕生の碑はありますが、出自については諸説あります。
これは農民であったがために、参考になる記録がほとんどないためなのだとか。
農民説、裕福な農民説、実は皇室だったなどなどいろいろあるそうです。
その1つとしてここに出生の碑がある。いろいろな情報も「1つの説」として捉えるのが良いと教えていただきました。
歴史の情報を見ると、それが正しいことと信じ込んでしまいがち。
近藤宮司のお話を聞いて、情報を精査して行くことの大切さと面白さを感じました。
<豊臣秀吉関連情報はこちら>
店主の秀吉愛が炸裂!1日1組限定の宿「Show和の宿つちや-豊臣の隠れ茶の間-」
<住所>
愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷
<地下鉄>
地下鉄東山線「中村公園」駅3番出口 徒歩10分
市バス「中村公園」 下車すぐ
<サイト>
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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