武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2021年1月29日記事のため内容が古い可能性があります。

足跡を巡る 豊臣秀吉の巻:其の一

2021.01.29

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

秀吉誕生

1537年、尾張国の中村(現在の名古屋市中村区)で誕生。
出自や両親の名などは諸説あり、未だこれといった決め手がありません。

こちらは、生誕地碑と像がある中村公園。豊国神社も隣にあります。
ちなみに像の名にある幼名の「日吉丸」は、創作という説が有力だとか。

中村公園の隣りにある常泉寺。境内には、秀吉像や産湯の井戸があります。

中村公園
所在地:愛知県名古屋市中村区中村町高畑68

常泉寺
所在地:愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47−47

尾張から遠江へ

13から15歳頃に家を出たという若き日の秀吉は、東の遠江へ。
この頃から藤吉郎と名乗り、名門今川家の陪臣・松下之綱に仕えます。

引馬城で行われた宴会で、猿のモノマネをして栗を食べる姿を披露。
これを気に入られ松下家奉公につながった、という逸話をもとにした像も。

写真は、頭陀寺と松下屋敷跡がある頭陀寺第一公園と頭陀寺。
松下之綱が城主を務め、秀吉が奉公していた頭陀寺城があった場所です。

引馬城跡(元城町東照宮)
所在地:静岡県浜松市中区元城町111−2

松下屋敷跡(頭陀寺第一公園)
所在地:静岡県浜松市南区頭陀寺町310−4

頭陀寺城跡(頭陀寺)
所在地:静岡県浜松市南区頭陀寺町214

尾張に戻り織田家へ士官

順風満帆の秀吉でしたが、松下家での奉公は3年ほどで終わりを告げます。
去った原因は諸説ありますが、とにかく秀吉は織田家へ士官することに。

そのきっかけをつくったのが、信長の側室・生駒吉乃だという説もあれば、
そもそも信長より前に蜂須賀正勝に仕えていたという説もあるようです。
写真は、吉乃ゆかりの小折城跡と正勝ゆかりの蜂須賀城跡。

小折城跡(生駒屋敷跡)
所在地:愛知県江南市小折町245

蜂須賀城跡(蓮華寺)
所在地:愛知県あま市蜂須賀大寺1352

秀吉伝説の幕開け

織田家に士官してからの秀吉は、メキメキと頭角を現してゆきます。
信長の草履を懐で温め存在をアピール、清洲城の塀普請や薪奉行で大活躍…
ほぼ創作でしょうが、秀吉ならあるいは、と思わせるのがこの人の凄い所。

桶狭間の戦いの翌年1561年には、浅野長勝の養女・ねねと結婚。
軍事面においても、対斎藤氏における墨俣での築城など功績を重ね、
織田家中における秀吉の存在は、徐々に大きくなってゆきます。

墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)
所在地:岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742−1

おまけ

其の一は、中村公園と常泉寺の隣りにある妙行寺。
後に秀吉の股肱の臣となる加藤清正の生誕地として知られています。

其の二は、浅野公園。ねねの養父・浅野長勝の屋敷跡があったとのこと。
秀吉とねねは、戦国の世では珍しい恋愛結婚だったと言われております。

妙行寺
所在地:愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷22

浅野公園
所在地:愛知県一宮市浅野八剱67−1

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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