徳川家康年表
― 家康公の生涯をたどる ―
徳川 家康(とくがわ いえやす)、松平 元康(まつだいら もとやす)は、三河国の松平広忠の長男として生まれ、浜松城。駿府城城主を経て、江戸幕府の初代征夷大将軍。織田信長・豊臣秀吉と並び三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持ち、馬印は金扇。旗印は「厭離穢土 欣求浄土」。兜は、歯朶獅嚙輪貫前立大黒頭巾形兜。三河、遠江、駿府を中心に拠点を置き、江戸幕府を開くなど最終的な天下統一を果たした武将。
生まれは岡崎城内の坂谷邸で、生まれた日は岡崎城の上空を、井戸から立ち昇った金の龍が舞ったという伝説がある。幼名は竹千代。その後、織田家と母の実家の水野家が同盟したため離縁。6歳で今川家の人質として駿府に送られる途中、織田家の人質とされてしまうが、2年後、今川家に取り返される。
15歳の時に元服し、次郎三郎元信となる。築山殿を正室に迎え、19歳の時に桶狭間の戦いで最前線の城・大高城に食料を運ぶ。その戦いで今川義元が討ち死にし、岡崎へ帰り元康から家康と改める。1562年に織田家と清洲同盟を結び、翌年、従五位下に叙し、三河守に任ぜられる。1570年に浜松城を築城。
その後、徳川家康は宿敵・武田信玄に攻められ三方ヶ原の戦いで敗戦。5年後、織田徳川連合軍として長篠の戦いで武田軍に勝利。本能寺の変で織田信長が暗殺された時、伊賀越えで命からがら岡崎に帰る。小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉軍と戦い、秀吉の先鋒を破り勝利したものの、織田信雄が急遽豊臣秀吉側に寝返ったため、和睦。戦には勝ったものの、和睦は敗北者のような形となってしまう。
その和睦により豊臣秀吉に仕え、秀吉の姉と母を人質として預かることになる。豊臣政権の五大老として、駿府、浜松と三河から駿府までを治めていたが、突如江戸城に転封。豊臣秀吉の死去後、1600年に関ヶ原の戦いで東軍を率いて勝利。
1603年、征夷大将軍になり江戸幕府を開く。家督を三男の秀忠に譲り、自身は駿府に隠退。1609年に9男・義直の城として名古屋城を築城。徳川の天下を諸大名に知らしめる。1614年大坂・冬の陣が開戦。豊臣秀頼側が講和に応じ、大阪城の堀を埋めることに成功。翌年の夏の陣で豊臣家は滅亡。徳川の天下が確定した翌年、鷹狩に出た先で死去。75歳でこの世を去る。辞世の句は「先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う」。久能山東照宮をはじめ、全国の東照宮で祀られ親しまれている。天下人になったという史実から「出世」「天下取り」と、ビジネス運を司るアイコンとしても人気が絶えない。
生まれは岡崎城内の坂谷邸で、生まれた日は岡崎城の上空を、井戸から立ち昇った金の龍が舞ったという伝説がある。幼名は竹千代。その後、織田家と母の実家の水野家が同盟したため離縁。6歳で今川家の人質として駿府に送られる途中、織田家の人質とされてしまうが、2年後、今川家に取り返される。
15歳の時に元服し、次郎三郎元信となる。築山殿を正室に迎え、19歳の時に桶狭間の戦いで最前線の城・大高城に食料を運ぶ。その戦いで今川義元が討ち死にし、岡崎へ帰り元康から家康と改める。1562年に織田家と清洲同盟を結び、翌年、従五位下に叙し、三河守に任ぜられる。1570年に浜松城を築城。
その後、徳川家康は宿敵・武田信玄に攻められ三方ヶ原の戦いで敗戦。5年後、織田徳川連合軍として長篠の戦いで武田軍に勝利。本能寺の変で織田信長が暗殺された時、伊賀越えで命からがら岡崎に帰る。小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉軍と戦い、秀吉の先鋒を破り勝利したものの、織田信雄が急遽豊臣秀吉側に寝返ったため、和睦。戦には勝ったものの、和睦は敗北者のような形となってしまう。
その和睦により豊臣秀吉に仕え、秀吉の姉と母を人質として預かることになる。豊臣政権の五大老として、駿府、浜松と三河から駿府までを治めていたが、突如江戸城に転封。豊臣秀吉の死去後、1600年に関ヶ原の戦いで東軍を率いて勝利。
1603年、征夷大将軍になり江戸幕府を開く。家督を三男の秀忠に譲り、自身は駿府に隠退。1609年に9男・義直の城として名古屋城を築城。徳川の天下を諸大名に知らしめる。1614年大坂・冬の陣が開戦。豊臣秀頼側が講和に応じ、大阪城の堀を埋めることに成功。翌年の夏の陣で豊臣家は滅亡。徳川の天下が確定した翌年、鷹狩に出た先で死去。75歳でこの世を去る。辞世の句は「先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う」。久能山東照宮をはじめ、全国の東照宮で祀られ親しまれている。天下人になったという史実から「出世」「天下取り」と、ビジネス運を司るアイコンとしても人気が絶えない。
1542年 | 12月26日 松平広忠(17歳)の嫡子として岡崎城(愛知県岡崎市)で誕生する。 幼名、竹千代。母、水野忠政娘・於大(15歳)。 |
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1543年 | 7月以降 広忠、於大を離縁する。 |
1547年 | 8月2日 今川家へ人質として送られる途中、織田家に奪われ尾張で人質となる。 |
1549年 | 11月9日 織田家と今川家との人質交換が成立し、12月27日、駿府(静岡市)へ送られる。 |
1555年 | 3月 駿府の今川館(静岡市)で元服し、今川義元の偏諱を賜って『元信』と称す。 |
1557年 | 正月15日 今川家重臣・関口義広の娘で今川義元の姪(築山殿)と婚礼を行う(5月15日説もある)。 |
1557〜8年 | この頃、元信を「元康」と改名する。 |
1560年 | 5月19日 桶狭間合戦 今川勢の先鋒として出陣し、大高城(愛知県名古屋市)への兵糧入れを成功させるが、桶狭間で今川義元が討死する。 5月23日、岡崎城へ帰還する。 |
1561年 | 2月頃 織田信長と和睦する。9月、西三河を制圧する。 |
1562年 | 正月 尾三同盟 織川信長と同盟(清須同盟)を結ぶ。 |
1563年 | 7月6日 「家康」と改名する。 秋 三河一向一揆 一向一揆蜂起し、三河国内内戦となる。 |
1566年 | 5月 三河平定 牛久保城(愛知県豊川市)を攻略し、三河一国を統一する。 12月29日 徳川改姓 「徳川」への改姓を勅許され、「従五位下三河守」に叙任される。 |
1569年 | 5月6日頃 今川家攻略 今川氏真と和睦し、遠江掛川城(静岡県掛川市)を領有する。 |
2023.01.21
年表
2023.01.12
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2016.07.26
年表
2016.07.18
年表
1570年 | 6月 本拠を岡崎城より引馬城(静岡県浜松市)へ移し、名を「浜松」と改める。 6月28日 姉川合戦 姉川(滋賀県長浜市)で、織田信長の援軍として合戦に参加する。 朝倉・浅井連合勢を破る。 10月8日 三越同盟 上杉謙信と同盟を結ぶ。 |
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1572年 | 12月22日 三方ヶ原合戦 三方ヶ原(静岡県浜松市)で徳川・武田両勢衝突し、徳川勢大敗する。 |
1575年 | 5月21日 長篠合戦 設楽原(愛知県新城市)において、織田・徳川連合勢、武田勝頼勢を破る。 |
1579年 | 8月29日 正室・築山殿を遠江富塚(静岡県浜松市)で殺害する。 9月15日、嫡男・信康(21歳)を二俣城(静岡県浜松市)で切腹させる。 |
1581年 | 3月22日 遠江平定 高天神城(静岡県掛川市)を攻略し、遠江全土を平定する。 |
1582年 | 3月29日 駿河領有 織田信長の甲斐侵攻に参加する。 3月11日、武田勝頼(38歳)、天目山(山梨県甲州市)で自害し、武川家滅亡する。 信長より駿河一国を与えられる。 5月15日 家康、安土城を訪れる。 6月2日 本能寺の変 織田信長(49歳)、明智光秀に討たれる。 堺(大阪府堺市)を脱出し、伊賀越えで6月4日に岡崎へ帰還する。 6月13日 羽柴秀吉、明智光秀を山崎合戦で破る。 10月29日 甲斐・信濃領有 甲斐・信濃平定に出陣し、北条氏直勢と対立する。 北条氏と同盟を結び甲斐・信濃を領有する。 |
1584年 | 3月7日 小牧・長久手合戦 家康・織田信雄、羽柴秀吉と対立し、家康、浜松を出陣する。 4月9日 徳川勢、長久手(愛知県長久手市)で羽柴勢を破る。 11月15日 秀吉と信雄が和睦し合戦終結する。 11月21日、家康の二男・於義伊(後の結城秀康)を秀吉の養子とする。 |
1585年 | 閏8月2日 上田合戦 徳川勢、真田昌幸の信濃上田城(長野県上田市)を攻めるが敗退し、11月に撤退する。 |
1586年 | 10月27日 秀吉の母・大政所を人質に受けて上洛し、大坂城で秀吉に臣下の礼をとる。 12月4日 本拠を浜松城から駿府城へ移す。 |
1587年 | 8月8日 「従二位権大納言」に叙任される。 |
1589年 | 2月 領国五ヵ国の検地を行う(〜天正18年正月)。 |
1590年 | 7月5日 小田原合戦 北条氏政・氏直父子、豊臣秀吉に降伏し北条家滅亡する。 |
2016.02.12
年表
2016.02.08
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2015.12.01
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1590年 | 7月13日 関東入国 秀吉より関東への移封を命じられる。 8月1日、江戸城へ正式に入城する。 |
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1592年 | 3月17日 文禄の役 京都より肥前名護屋(佐賀県唐津市)へ出陣し、3月下旬頃到着する。 |
1595年 | 8月3日 家康ら有力大名六名の連名で、豊臣政権による支配規程「御掟」・「御掟追加」を制定する。 |
1597年 | 正月 慶長の役 豊臣秀吉、再び朝鮮への出兵を命ずる。 家康は伏見(京都市)に滞在する。 |
1598年 | 8月 豊臣政権五大老筆頭として実権を握る。 秀吉の死を秘して朝鮮出兵勢の撤退を命ずる。 8月18日 豊臣秀吉、没する(63歳?)。 |
1599年 | 閏3月3日 前田利家、没する(62歳?)。 閏3月13日 伏見向島邸より伏見城西之丸へ入城する。 9月27日、大坂城西之丸へ入城する。 |
1600年 | 9月15日 関ヶ原合戦 家康方、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で石田三成方に大勝する。 |
1603年 | 2月12日 幕府創設 伏見城において征夷大将軍・右大臣等に叙任される。 |
1605年 | 4月16日 大御所 将軍職を三男・秀忠へ譲り、「大御所」と呼ばれる。 |
1606年 | 9月23日 江戸城本丸御殿が竣工し、翌12年未に天守が竣工する。 |
1607年 | 5月20日 文禄・慶長の役後、初めての朝鮮国使節を駿府城で引見する。 |
2019.01.26
年表
2017.09.20
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2017.09.18
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1607年 | 7月3日 駿府城を居城とする。12月22日駿府城天守・本丸御殿、焼失する。 |
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1611年 | 3月28日 二条城(京都市)において豊臣秀頼と対面する。 |
1612年 | 3月21日 岡本大八事件を処断する。同日、直轄都市に対してキリスト教禁教令を出す。 12月頃 名古屋城天守竣工する。 |
1613年 | 5月以降 大久保長安事件が起きる。12月23日、幕府、伴天連追放令を発令する。 |
1614年 | 10月1日 大坂冬の陣 豊臣秀頼討伐を発令する。11月19日開戦。 12月19日、和睦が成立する。 |
1615年 | 4月26日 大坂夏の陣 大坂方と再度開戦となる。5月5日、二条城より出陣する。 5月7日、大坂落城。翌8日、豊臣秀頼(22歳)・淀殿自害し、豊臣家滅亡する。 7月7日 「武家諸法度」を定める。 |
1616年 | 3月17日 「太政大臣」に叙任される。 4月17日 死去 駿府城で没する。遺体は久能山(静岡市)へ葬られる。 11月 家康の遺産「駿府御分物」・「駿河御譲本」の御三家への分与が始まる(〜元和4年11月)。 |
1617年 | 2月21日 「東照大権現」の神号を勅許される。 3月9日 「正一位」が追贈される。4月8日、家康の遺体、日光(栃木県日光市)に改葬される。 |
1645年 | 11月3日宮号が勅許され、「東照社」は「東照宮」となる。 |
2022.07.25
年表
2022.04.30
年表
2016.01.08
年表
徳川家康について
誕生 | 1542年12月26日 |
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出身地 | 三河国岡崎(愛知県岡崎市) |
名前 | 竹千代 → 松平元信 → 松平元康 → 徳川家康 |
父 | 松平広忠 |
母 | 於大 |
正室 | 築山殿 旭姫(豊臣秀吉妹) |
側室 | 西郡の方、於万の方、於愛の方など |
子 | 信康、亀姫、秀康(秀吉養子)、秀忠(二代目将軍)、義直、頼宣、頼房、振姫など | 兄弟姉妹 | 松平家元、内藤信成、松平康元など | 没年 | 1616年4月17日(75歳) |
辞世の句 | 「先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う」 |
徳川家康家紋 | 三つ葉葵 |
兜 | 歯朶獅嚙輪貫前立大黒頭巾形兜 | 主な政策 | 武家諸法度/禁中並公家諸法度/江戸幕府創設 | ゆかりの食べ物 | 八丁味噌、忍冬酒、大福寺納豆、折戸なす、お茶、安倍川もち、佃煮、海苔、天ぷら |
主なゆかりの城 | 岡崎城 浜松城 駿府城 江戸城 二条城 名古屋城 |
年表出展(参考):徳川美術館 徳川家康ー天下人の遺産ー