徳川家康の側室「お万の方」とゆかりのある「蓮永寺」
2024.04.01
2023.01.21
NHK大河ドラマ「どうする家康」が始まりましたね。徳川家康押しの方は、どこに着眼して観られているでしょうか。とても興味深いです。
せっかく大河ドラマが始まったので、今回はこの場所をみなさんにご紹介したいと思いました。
家康が幼少の頃、織田家と今川義元、2回ほど人質であったことはとても有名ですよね。
人質というと、さぞかし辛い目にあったのだろうと想像してしまいますが、ドラマで観ている限り、また徳川家康の家臣であった大久保彦左衛門(大久保忠教)の著書「三河物語」にも、徳川家康が今川義元の人質として過ごした駿府時代は、辛い日々は送っていなかったとされています。
元服前の徳川家康は、幼名の竹千代と呼ばれ、年齢はまだ14歳に達していませんでした。
駿府城には、「竹千代手習いの間」が復元されており、徳川家康はこの部屋で今川家軍師の臨済宗住職雪斎和尚から学問を学んだと伝えられています。
(ライトが当たってうまく撮影できておらずすみません)
現在の駿府城には、「竹千代手習いの間」が原寸で復元されていますが、実際に駿府城にあったわけではなく、臨済寺にあるものを許可を得て復元させていただいているそうです。
窓際に置かれた文机は、外からの光が差し込むようになっており、よい学習環境が整えていたのだと感じました。
人質であった時期に、徳川家康は元服を迎えることとなりました。
年齢は14歳。1555年のことでした。
烏帽子親となったのは、今川義元。
ちなみに烏帽子親というのは、元服の際烏帽子子(家康)に烏帽子をかぶせる役目をする人のことです。家康は元服の際、今川義元から次郎三郎元信、その後元康と名を与えられました。
元信、元康、どちらにも、今川義元の『元』が使われていますね。
今川義元がどのように考えて『元』を使ったのかは、確かなことはわかりませんが、たとえ人質ではあっても、情によって、絆によって与えられたと思いたくなります。
駿河国総社である静岡浅間神社
静岡浅間神社。賎機山(しずはたやま)の麓にある、背後の豊かな木々に守られた駿河国の総社です。
御由緒は、901年、醍醐天皇の勅願によって、富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受けられたとされています。
大拝殿は、国の指定重要文化財に指定されており、一層目が千鳥破風付き切妻屋根、二層目は入母屋屋根の三層二階建て楼閣造りとなっています。これは高さ25mもあり、全国をもっても唯一無比の大建築として有名なものです。
静岡浅間神社については、別記事でさらに詳しくご紹介しますので、ご覧いただけるとうれしいです。
『どうする家康 静岡 大河ドラマ館』が1月27日オープン|徳川家康ゆかりの静岡浅間神社
静岡県静岡市葵区宮ケ崎町102-1
JR静岡駅前より
しずてつジャストラインバス
9番のりば
安倍線または美和大谷線
「赤鳥居 浅間神社入口」下車
拝観料:無料
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
静岡県の記事
徳川家康の記事
この記事の後によく読まれているおすすめ記事
バックナンバー記事
この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています