武将愛 SAMURAI HEART

どこにいた家康 Vol.45 名古屋城

2023.11.25

この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。

徳川家康が豊臣家を意識し築かせた「名古屋城」

今回の史跡は、対豊臣を見据え築かれた尾張の名城「名古屋城」です。

1609年に徳川家康が尾張の中心地だった清須から名古屋への遷府を決定、
1610年、加藤清正など豊臣恩顧である西国の武将たちを動員し、天下普請で築城を開始。
清須から名古屋へ遷府した背景には、清須が水害に弱かったこともさることながら、
江戸と警戒すべき大坂を結ぶ東海道の中間地が名古屋、という理由があげられます。
ちなみに、徳川の威信をかけ建築された天守は突貫工事で1612年に完成、
本丸御殿は1615年の完成といわれております。

1615年に徳川家康の九男・徳川義直と春姫(浅野幸長の娘)の婚儀が行われると、
徳川家康自身も駿府から名古屋城を訪れこれに参加。
この頃には一旦和議が成立していた豊臣家との関係が再び悪化しており、
徳川家康は婚儀を見届けた後、名古屋城から大坂へ出陣することとなります。
1616年に徳川義直が入城、その後尾張は紀伊・水戸とともに「御三家」と呼ばれる存在に。

1930年、建造物が当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定されたものの、
1945年の名古屋大空襲で天守・本丸御殿が焼失してしまいます。
その後、2009年に本丸御殿の復元工事が開始(2018年完成・公開開始)。
同年、天守の木造復元計画の本格検討も開始され、現在まで議論が続いております。

名古屋城をご紹介した記事が盛り沢山!一覧はこちら>

 

「名古屋城」の見学ルート①

・最寄り駅の名古屋城駅がある、東側の「二之丸東門跡」から中へ

・こちらが東側の入口にあたる「東門」、全体図もこのあたりでチェック
この東門か南西にある正門が、名古屋城の有料ゾーン入口となっております

・二之丸をひとまず通過し、まずは本丸方面へ移動
西へまっすぐ進んでいくと、「東南隅櫓」と「表二之門」が見えてきます

・表二之門を通過すると、目の前には「本丸御殿」と「天守」が
本丸御殿にも入りましたが、写真が納まりきらないので今回は割愛

・本丸御殿を左手に見ながら北上し、本丸東一門跡手前から一枚
「天守」と小天守、本丸御殿が見られる定番のビューポイントですね

・こちらが、清正石という巨石がある「本丸東一門跡」
奥には移築された「旧二之丸東二之門」があるので、こちらもお忘れなく

・続いて天守方面へ進み、北の御深井丸(おふけまる)へ至る「不明門」へ
厳重に施錠されていたことから、「あかずの御門」と呼ばれていたそうです

 

「名古屋城」築城時に行われた壮大な「清須越」

清須の町ごと引っ越すという驚くべき「清須越(きよすごし)」が行われたのが1610年。
清須からの遷府には、徳川義直の傅役・山下氏勝という人の進言か助言があったようで、
候補地には織田信長ゆかりの名古屋(那古野)城・小牧城・古渡城が挙がったそうです。

『金城温故録』の中には候補地についての逸話が載っており、徳川家康曰く、
「古渡に築城すれば、日本の半分の兵が攻めても落ちない。
名古屋に築城すれば、日本中の兵が攻めても落ちないだろう。」
名古屋城の北側は湿地となっていること、熱田の湊が近いという利点も多く、
この徳川家康の鶴の一言によって名古屋への遷府が決まったとか。

「清須越」はまさに町まるごとの引っ越しであり、わずか3年ほどで約6万人が移動、
約100の寺社、67の町が清須から名古屋へと移りました。
本町・伝馬町・長者町など清須にあった町名もそのまま名古屋へ移動、
原則として住んでいた人々も、そのまま同じ町名の地に住むこととなっていたようです。

徳川家康が「清須越」などを経てつくりあげた町並みは、
現在の名古屋中心部と照らし合わせてもほぼ一致するといわれております。
名古屋城から少し足をのばせば、三之丸の外堀跡や門跡の石垣などもあるため、
訪れる際は往時の姿に思いを馳せながらじっくりと巡るのが良いでしょう。

 

「名古屋城」の見学ルート②

・不明門から御深井丸へ進み、北側から天守を見上げましょう
加藤清正が築いた天守台石垣のカーブは、いつ見ても惚れ惚れします。

名古屋城の天守・熊本城を築城したことでも有名な「加藤清正」を記事一覧でご紹介>

武将像と共に加藤清正をご紹介した記事はこちら

・天守台石垣には「加藤肥後守内小代下総」と刻まれた隅石や刻印石があるので、
望遠のできるオペラグラスなどがあるとより楽しめるでしょう

・不明門あたりから北→東と少し進み、刻印石が多くある「塩蔵門跡」を東へ
工事中で行き止まりになっておりますが、ここから見る「天守」もまた良し

・天守から一旦離れ、御深井丸の北西にある「西北隅櫓」へ
現存する三重櫓としては、熊本城の宇土櫓に次ぐ大きさを誇る櫓です

・「天守」の方へ戻り、空堀と石垣を堪能
「西南隅櫓」の下あたりには、2頭のシカがいるとのことです

名古屋城の堀に鹿が?その理由とは?
(過去記事のため情報が古い場合がございます)

・シカを発見!もう1頭は巧みに隠れていたようで発見できず…

・後回しにしていた二之丸方面へ戻り、二之丸庭園の北側へ
こちらには、「南蛮たたき鉄砲狭間」という珍しい遺構が残っております

・最後は「正門」から外へ出て、外堀を右手に見ながら散策
名城公園方面へ進みながら、「西北隅櫓」や「南蛮たたき鉄砲狭間」を撮影しました

 

次回どうなる、『どうする家康』

徳川家康が征夷大将軍となり、徳川秀忠が次の将軍に。
反発する豊臣陣営の様子と、どんどん成長する豊臣秀頼の描写もあり
1話で一気に8年経過、いよいよクライマックスに近づいてきましたね。
於大、本多忠勝、榊原康政と徳川家康に近しい人物たちが次々と舞台を去り、
徳川家康も修羅となる覚悟を決めたような印象を受けました。

次回は、徳川家康と豊臣秀頼が久々に対面する「二条城会見」です。
19歳となり立派に成長した豊臣秀頼に対し、70歳となる徳川家康。
豊臣家を滅ぼすことをこの時決めたというお話もありますが、
はたして『どうする家康』ではどのような解釈なのか、楽しみにしたいと思います。


名城歩道橋から望む「名古屋城と加藤清正像」

今回の史跡「名古屋城」

名古屋城
場所:愛知県名古屋市中区本丸1−1

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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