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名古屋の経済発展を支えた堀川、開削したのは福島正則だって知ってた?

2017.08.28

『ブラタモリ』で名古屋が特集された回は、歴代視聴率でもトップクラスの数字だったとか。
おそらく関心が高かったのは地元民なのではないでしょうか。

そこで取り上げられていたのは、名古屋城と堀川との関係。名古屋城下と熱田港を結ぶ約6キロの堀川の開削を行ったのは、豊臣恩顧の武将であり、愛知県あま市出身の福島正則だということをご存知でしたでしょうか?

地元民でも、それを知らないという方が多いのが実情だったりします。

しかし堀川は名古屋の経済的な発展を支えた運河。

それを作った福島正則の功績を名古屋市民に知ってほしいと、来年の4月、名古屋堀川ライオンズクラブさんにより銅像が建てられることになりました。
場所は納屋橋の南側にある堀川左岸の「納屋橋ゆめ広場」とのこと、除幕式が楽しみですね。

今回は意外と知られていない福島正則と堀川について、簡単にご紹介いたします。

堀川と清洲越し

名古屋城といえば、徳川家康が9男義直のために作ったと言われるお城で、大阪の陣が起きる前。
まだまだ豊臣政権を警戒していた徳川家康が、西の最前線を守る城として天下普請として20もの大名に作らせたもの。
その臨戦態勢バッチリすぎる城を担当した大名が、「攻める気をなくす」ような鉄壁のお城です。

しかし作ったのは城だけではありません。

名古屋城は海陸の連絡に便利な那古野台地に作られますが、同時に当時の中心地だったのは「清洲」。
しかし手狭で水攻めの時に弱いことや、河川の氾濫などの危険性を考え、慶長15年(1610年)武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門までもをごっそり名古屋に移転。これが有名な「清洲越し」とよばれるものです。

その清洲越しのキーとなるのが、この堀川です。
長さは名古屋城西側の巾下門から南の熱田湊に至る6300メートルで、名古屋城への物流が行われる物流の重要な拠点となりました。
その功績を讃えて、福島正則の官名であった「左衛門の大夫」にちなんで、「大夫堀(たゆうぼり)」と呼ばれていたそうです。

そこでは名古屋城に運ばれる木曽ひのきなどの材木屋、米や味噌など食料品など、多くの業種が発展していきます。

名古屋城の築城が始まったばかりの時には、まだ水路の開削は十分ではありませんでしたが、慶長15年(1610年)に開削に着手してからは、慶長17年(1612年)12月にはほぼ完成するというスピード工事。

開削には美濃や伊勢からも人を動員していたようで、徳川家康からはスピードも求められていたのかもしれません。
福島正則にとっては、相当大変な工事だったことが伺えます。

今でも当時の石垣が見られるカフェ

その後堀川は、名古屋城を拠点とした物流の重要地としてドンドン発展していきます。
さまざまな貿易が行われ、町が潤い経済発展していくのですが、当時の材木問屋のあたりで当時の石垣が実際に見られる場所があります。

そこは、ギャラリーとカフェのブランカさん。
ギャラリーの中の石垣は、ブラタモリでも実際にタモリさんも見にきたそうですよ。

実際に行ってみました。ギャラリーの階段を降りていくと

こんな風に石垣がありました。
これは戦う要素ではなく、材木などの荷揚げのために河川を強化した名残だそうです。

カフェではランチを頂いてみました。

キッシュランチを選択しましたが、とても美味しかったですよ。

現代でも昔の面影を残している場所として、一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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北村美桂

岐阜県出身。歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営と、Google Analyticsを活用したライティングを行うWebライター。現在は参加者全員が新聞紙カブトをかぶる歴史イベント「名古屋歴史ナイト」を3ヶ月に1回開催中。会の情報はこちらでも更新中。

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