愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2023.08.19
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、岩崎城の戦いの舞台となった「岩崎城」です。
1987年に模擬天守(展望塔)が建築され、「岩崎城址公園」として整備。
模擬天守だけでなく、櫓跡や二の丸と本丸間の空堀などが見どころといえるでしょう。
詳しい築城年はわかっておりませんが、織田信秀による築城といわれており、
1529年には尾張地方を狙う徳川家康の祖父・松平清康が攻略。
松平清康が「守山崩れ」で亡くなった後は、丹羽氏清が入城し改修しました。
以後、岩崎城は四代にわたって丹羽氏の居城なります。
「小牧・長久手の戦い」では、城代として岩崎城を守っていた丹羽氏重が
三河への奇襲を狙う羽柴方に攻撃を仕掛けた後、岩崎城を攻められ落城。
しかし、ここでみせた丹羽氏重の奮闘が、後の戦況を大きく変えることとなりました。
豊臣秀吉・徳川家康本気の戦い「小牧長久手戦い」スペシャルページ
徳川軍の勝利に貢献した丹羽氏重の菩提寺「妙仙寺」をご紹介した記事はこちら
・北側の駐車場方面から攻城開始、まずは入口付近の「案内図」をチェック
・順路を進んでいくと、二の丸庭園への分岐路の先に「空堀」が見えてきます
・少し直進して「空堀」を堪能、1枚目が正面、2枚目が左手の「空堀」
・少し戻り、左手にある階段を登って「二の丸庭園」へ
名古屋城の三の丸庭園を参考にし、日進市の形にしてつくったようです
・二の丸庭園の東側には「水琴窟」もあるので、水を入れて音を楽しみましょう
・往時は二の丸と本丸を渡していた「土橋」があった場所
現在は拡張されしっかりとした橋となっております
・橋上から見る素晴らしい「空堀」、順に向かって右側と左側の眺め
丹羽氏は織田信雄・徳川家康方に属し、小牧・長久手の戦いに参戦。
当時の丹羽家当主は四代目にあたる丹羽氏次でしたが、
自身は徳川家康の軍と合流していたため、弟の丹羽氏重が代わりに城を守っていました。
小牧でのにらみ合いに業を煮やした羽柴方は、「三河中入り」作戦を開始します。
三河へ急いで向かいたい羽柴方の池田軍・森軍に対し、丹羽氏重は城を出て攻撃。
存在を無視できなくなった羽柴方は、急遽岩崎城へ攻撃をしかけることとなります。
健闘むなしく岩崎城は落城しますが、攻め手の池田軍・森軍らは疲労し休憩をとることに。
この時、すでに徳川家康は軍を率いて小牧山城から移動し、背後からの攻撃を開始します。
まずは白林山で羽柴秀次軍を敗走させ、桧ヶ根で堀秀政軍に敗れるものの後退させた後、
長久手まで引き返してきた池田軍・森軍と戦い勝利。
後に、徳川家康は岩崎城とともに散った丹羽氏重の働きを「あの足止めが一番の戦功」と称し、
丹羽氏重の代わりに兄・丹羽氏次を加増したといわれております。
・土橋跡から本丸へ進むと、右側に「歴史記念館」、左側に「模擬天守」が
暑さ対策で早朝に訪れたため、残念ながら中の見学はできず…
・土橋跡を渡ってすぐ左手にあるのが「井戸跡」、その奥には「隅櫓跡」も
・歴史記念館の方まで戻り、階段の上にある「櫓台」へ
ここには、丹羽氏重の忠義を称した「表忠義碑」があります
・櫓台の先へ進み左手の階段を降りると、右手にあるのが「岩崎城古墳」
説明板によれば、発掘調査の際に偶然発見されたものを復元したとのこと
・古墳の近くにある「丹羽勘助古城之跡碑」
ちなみに、「勘助」は四代目城主・丹羽氏次の通称です
・本丸南西側から撮影した「天守」、本丸と南側の高低差がよくわかりますね
・最後は、階段を降りた先にある駐車場からの一枚
徳川家康と羽柴秀吉の戦い、「小牧・長久手の戦い」がいよいよ開幕。
お互いの駆け引き、特に初花肩衝を献上した石川数正と羽柴秀吉との
やりとりは見ごたえありましたね。
戦いの行方が気になるところですが、何をおいても「どうする数正」。
歴史講座でも一番質問が多かったこの後の石川数正の行動を
『どうする家康』でははたしてどのような描き方をするのでしょうか。。
あとは、今回ご紹介した岩崎城が出てくるのかにも注目したいと思います。
徳川家康が座って軍議したといわれる「色金山」の床几石
岩崎城
場所:愛知県日進市岩崎町市場67
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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