名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.04 大天守 其の四
2025.03.29
2016.09.01
小牧・長久手の戦いとは、、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄と徳川家康陣営の間で行われた戦い。
三英傑同士が争った唯一の戦いとして、戦国ファンには知られている戦いです。
この戦いは、本陣は小牧エリア、実際の戦いは長久手エリアと場所が離れています。
さて、そんな小牧・長久手の戦いでは奇襲戦が各エリアで行われていたのですが、戦いにおいて重要な役割を果たしたのがこの岩崎城です。
当時は16歳の岩崎城主、丹羽氏重が留守を預かっている時、豊臣方の池田恒興隊が岡崎へ進軍していくのを発見。
わずか300の兵で7000もの軍勢の恒興隊と戦い、3日後には全員が討ち死にしてしまったという歴史があります。
なかなか知られていない岩崎城ではありますが、歴史を知るとすごい城だったのだなとわかります。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
丹羽家は現在の赤池からみよし市あたりを統治していた武士でした。
岩崎城を中心に、近隣の城を親戚筋が城主を勤めるなど、一族でこの地を守っていたのです。
小牧・長久手の戦いで一気に有名になりましたが、実は「横山の戦い」で織田信長に丹羽家は勝利しています。
これは一族の内紛で、藤島城(現在の日進市藤島町)の城主、丹羽氏秀親が、織田信長にデマを流し手を組み、岩崎城主の丹羽氏清・氏識(うじさと)親子を攻めた戦い。
織田信長は当時17歳でした。
しかし堅牢な岩崎城の守りと、丹羽氏清・氏識が山林に潜んで、信長軍を壊滅状態に追い込み、敗走。
岩崎城を守り切ったという歴史があります。
その後、織田家につき、織田信雄と徳川家康軍につくことになった小牧・長久手の戦い。
この戦いは、膠着状態を解決すべき、豊臣方の池田恒興、森長可が徳川家康の岡崎城をコッソリ攻めに行き、徳川家康の応戦を誘うという戦法が取られました。
それを知った徳川軍も相手に見えないように、岡崎城へ進軍し奇襲攻撃をかけて作戦を潰すという戦法をとっていました。
その時にこの岩崎城が非常に役立ちます。
当時16歳の丹羽氏重が全力で、池田恒興隊と戦い、全員が討ち死に。
時間をかせぐことができ、岡崎城を攻められずに済みます。
この働きを評価され、関ヶ原の戦い以降は豊田市1万石の大名となったそうです。
岩崎城と聞けばコンクリート製の城型歴史博物館というイメージがありますが、歴史的価値の高い史跡もあります。
それが空堀や土塁跡です。
発掘調査の結果、中世城郭の遺構としての空堀跡が確認されたそうです。
正直、なにもないと思っていたので、土塁や空堀を見た時は驚きました。
岩崎城の歴史も書いてあります。
これは井戸の跡です。
1階には岩崎城の看板。
門などは非常に立派ですがこれは史実とは関係ないと思います。
立派な岩崎城の天守ですが、無料で入れて展望台にも行けます。
歴史資料館も無料で入れて、非常にありがたい施設です。
これが当時の岩崎城のジオラマ。大きな空堀と川の流れを利用した守りがしっかりしたお城です。
小牧・長久手の戦いの時、池田恒興軍を翻弄しただけありますね。
歴史も知れて、空堀や土塁も楽しめる岩崎城。
小牧・長久手の戦いのことを知るにはぜひ立ち寄ってみてほしい場所です。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
住所:愛知県日進市岩崎町市場67
電話:0561-73-8825
<地下鉄>
・地下鉄鶴舞線/名鉄豊田線 赤池駅から
日進市内巡回バス「くるりんばす」で約15分
中央線「御岳口(おんたけぐち)」下車 徒歩3分
・名鉄豊田線 日進駅から
日進市内巡回バス「くるりんばす」で約12分
中コース「岩崎」下車 徒歩3分
・地下鉄東山線星ヶ丘駅から
名鉄バス「トヨタ博物館前」「五色園」行き約20分
「岩崎おんたけ口」下車 徒歩3分
<入場料>
無料
■開館時間
9:00~17:00(入館は16:30)
■休館日
月曜日(祝日の場合は開館)
12月28日から1月4日
<岩崎城Webサイト>
http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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