愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2021.05.30
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
山崎の合戦で主君の敵を討ち、直後に開催された織田家の跡継ぎを決める会合、
いわゆる清洲会議でも大いに存在感を発揮した秀吉。
対照的に、織田家中での影響力を失いつつあった柴田勝家との仲は悪化の一途をたどります。
水面下での駆け引きをしていた両者でしたが、雪で勝家が北陸から動けない時期になると
秀吉は柴田勝豊の長浜城、織田信孝の岐阜城を次々と攻略してゆきます。
これに対し、勝家側についた滝川一益が伊勢で挙兵。亀山城などを攻め落とし長島城へ入城。
亀山城跡
所在地:三重県亀山市本丸町572−2
雪で身動きが取れなかった勝家でしたが、春を前に近江への進行を開始。
羽柴・柴田の両軍は近江の余呉湖をはさんで陣取り、臨戦態勢となります。
その頃、美濃では織田信孝が岐阜城を狙い再挙兵。対処のため秀吉が自ら討伐へ。
これを好機と見た柴田軍、佐久間盛政が次々と砦を攻略し賤ヶ岳砦まで迫ります。
勢いに乗る柴田軍でしたが、丹羽長秀の参戦により賤ヶ岳砦を落とせず。
さらに秀吉の「美濃大返し」や前田利家の戦線離脱で撤退を余儀なくされます。
北ノ庄城へ逃れた勝家を、秀吉は間髪入れず追撃し城を包囲。
勝家はお市の方とともに自害し、秀吉は天下人への階段をまた一つ昇ります。
賤ヶ岳砦跡
所在地:滋賀県長浜市木之本町大音1068
北ノ庄城跡(柴田公園)
所在地:福井県福井市中央1丁目21−17
織田家を呑み込む勢いの秀吉でしたが、これを苦々しく見ていたのが織田信雄。
信雄は徳川家康へ秀吉打倒の同盟を持ちかけ、家康も好機と見て挙兵します。
1584年、秀吉が犬山の楽田城、家康が小牧山城に入り両雄はにらみ合いを開始。
秀吉は、池田恒興の三河を攻める策を採用し、進軍を命じます。
序盤は池田勢が岩崎城の戦いで勝利、長久手城も攻め落とすものの、
白山林に布陣していた羽柴秀次勢が徳川方の奇襲にあい壊滅。
この時、秀次を逃がすため木下利匡ら多くの家臣が犠牲となりました。
写真は、木下利匡らを祀った木下勘解由塚。
その後桧ヶ根に陣を敷いた堀秀政が一矢報いるものの、徳川軍本隊と戦った
森長可や池田恒興が討ち死にするなど大敗。長久手での戦いは徳川方が勝利する形に。
信雄・家康に呼応した反秀吉勢力と各地で火種を抱えていたこともあり、
秀吉は信雄に講和を申し入れます。信雄はこれを受諾し、小牧・長久手の戦いは終了。
戦の名分を失った家康とも講和し、秀吉はひとまず危機を乗り越えたといえるでしょう。
岩崎城跡(岩崎城址公園)
所在地:愛知県日進市岩崎町市場67
長久手城跡
所在地:愛知県長久手市城屋敷
木下勘解由塚
所在地:愛知県長久手市荒田1−2
堀久太郎秀政本陣地跡(桧ヶ根公園)
所在地:愛知県長久手市坊の後113
其の一は、賤ヶ岳の戦いの火蓋が切られたという尾の呂が浜。
南方向を見上げれば賤ヶ岳砦跡があり、東側には岩崎山砦跡があります。
其の二は、北ノ庄城でともに散った柴田勝家とお市の方のお墓。
隣には北ノ庄城の礎石といわれる石もありました。
其の三は、仏が根の戦いで戦死した森長可の祀られた武蔵塚。
「鬼武蔵」と呼ばれ恐れられた存在でしたが、意外にも小柄だったそうな。
尾の呂が浜(古戦場広場)
所在地:滋賀県長浜市余呉町川並
柴田勝家・お市の方墓所
所在地:福井県福井市左内町8−21
武蔵塚
所在地:愛知県長久手市武蔵塚905
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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