名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.04 大天守 其の四
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2016.09.08
小牧・長久手の戦いの時、丹羽氏重は徳川家康軍の武将として日進の岩崎城でわずか300人の兵で、池田恒興隊7000の兵と戦い、討ち死にしました。当時16歳の城主は、命をかけて徳川家康軍を守りました。
そんな丹羽氏重の菩提寺が岩崎城付近にある、妙仙寺にあるというので行ってみました。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉軍VS織田信雄・徳川家康軍の戦いです。
本陣は小牧エリアにありましたが、膠着状態が続きました。
そんな戦況を動かすべく、池田恒興、森長可ら豊臣秀吉軍の武将が、徳川家康の本拠地・岡崎城を襲撃し、徳川家康軍をおびき出そうという計画が進行。徳川家康軍はその情報を仕入れ、岡崎城へ移動。両軍は相手に気づかれないように小牧から岡崎へ移動し、相手を襲撃するという戦いとなりました。
徳川家康は池田恒興たちより早く岡崎城へ行かなければ、守りが手薄になっている自分の城が襲われてしまいます。
情報が入ったのは池田恒興がすでに出発した後。
徳川家康軍にとっては、時間が勝負でした。
そんな時に岩崎城の戦いが3日も池田恒興たちを足止めしました。
兵力の差が大きかったのですが、城を使った攻撃で翻弄し池田恒興軍のダメージはかなり大きなものとなりました。
丹羽家と妙仙寺は当時から関係が深く、この戦いが行われることを知り、食料のたしにと梅干を抱えて岩崎城に駆け込んだそうです。
丹羽氏重や城兵を励まし、女・子供をつれて近くにある六坊山方面へと避難したと書いてありました。
実はこの住職も戦いを支えていたのですね。
ここで足止めしたおかげで、徳川家康は池田恒興隊に追いつくことができ、長久手で両軍がぶつかり合うことになりました。
そんな丹羽氏重は日進市の妙仙寺に菩提寺があるそうです。
門の天井の上にはなぜか赤穂四十七士が!
ご住職によると、特にお寺とはゆかりがないそうです。赤穂四十七士の物語は人気があるので、門を寄贈された方の趣味ではないか?とのこと。
樹齢400年の立派な松がこのお寺の目玉。
菩提寺はお寺の裏にある墓地にあります。かなりわかりにくいのですが、こんな2つの石像がある場所です。
文字が消えてしまっていますが、住職さんが大きなパネルで当時の文字をみせてくださいました。
ちなみに丹羽氏清は岩崎城の初代城主です。
なかなか丹羽氏の足取りをみることができないので、このお寺は貴重です。
岩崎城のすぐ近くにあるので、ぜひ行ってみてください。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
住所:愛知県日進市岩崎町小林103
電話:0561-72-1112
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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