江戸の警備組織 「江戸町奉行所」は東京の有楽町にあった!
2024.01.23
2016.08.03
たどりついたのは・・。
寛永寺本坊から、谷中霊園に着いた私。
ここは、第十五代将軍徳川慶喜の墓所がある場所です。
桜の木も美しいといわれている場所です。
そうはいっても、霊園に足を運ぶのはあまり気が進みません。
想像力豊かなので、妄想しているのか、または何かの気配を感じているのか、
そのあたりは深入りしないようにしているのですが、やはりなんとなく足が進みません。
しかも広い!
霊園なのに番地までついています。
谷中霊園ってとても不思議な場所です。
お墓なのに、ひとつの町のようです。
霊園なので、あまり撮影は・・と思い、写真が少なめでごめんなさい。
けれど、ありました!
葵の御紋がついたお墓が。
(ここね。失礼しますが撮影させてください。)と心の中でつぶやく私。
撮影後、近くでよく見ると何かが違う感じ。
さらにじっくり見ると、徳川家のお墓であありましたが
徳川慶喜のお墓ではありませんでした・・・・・。
(ごめんなさい。)
なかなか見つからないお墓
はやく、徳川慶喜のお墓をみつけて、早くお参りして、早く帰りたい!
そんな気持ちの私は、なかなかお墓をみつけることができません。
「もう、帰りたい。」
と思ったときに、
10分も探していませんが、やっと見つけたという感じです。
お墓はやはり他の方々より大きめです。
広めの場所にゆったりとあるという感じでした。
そして、何よりこの空間は、ほかの場所よりも明るい空気感があります。
「こちらにお参りさせていただきありがとうございます。撮影してごめんなさい。」
と挨拶をして、すぐに霊園を後に。
徳川慶喜は、晩年は一般庶民としてお暮らしだったことを、このお墓を観て実感しました。
物思いしながら帰途へ
お墓を背に、谷中霊園の出口に向かう道で思ったことは、
大政奉還をし、政権を朝廷に返上したことで徳川慶喜は、
やっとそれまでのすべての重荷を下ろしたのだろうなあ・・・ということです。
何かにしがみつき、それを守ろうとしているときは、大切で離せないもののように感じるけれど、
離したとたん、何でそんなに必死だったのだろうと思ったりするものですよね。
徳川慶喜にとっては、徳川将軍家にとっては、必死に守らねばならないことだったとは思います。
けれど離したことによって、自由になり、その後の人生は、それなりに幸せだったかもしれないと思うのです。
気がついてみると、寛永寺本坊では降っていた雨は止んでおり、谷中霊園内では一度も傘を開かずにいました。
少し怖かったけれど、来ることができてよかった。
徳川慶喜さん、ありがとうございました。
JR上野駅・鶯谷駅周辺
上記地図をご参照ください。
地域カテゴリ
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
東京都の記事
バックナンバー記事
この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています