武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2022年8月8日記事のため内容が古い可能性があります。

姫たちの武将愛vol.10~高田馬場は徳川家康の側室「茶阿局」が愛した場所

2022.08.08

徳川家康に見初められた美貌の持ち主、茶阿局は馬術にも大変優れていたそうです。

その茶阿局が愛していた場所は、現在、学生の街として栄えているあの場所でした。

徳川家康の側室、茶阿局は武芸に秀でていた

徳川家康の側室である茶阿局。

美しい容姿であったといわれていますが、それだけではありませんでした。

馬に乗ることも大変上手で、さらに武術にも長けていたとか。

小牧・長久手の戦いにも陣中に向かったというのですから、なかなか勇ましい女性であったと察します。

徳川家康の側室になる前の茶阿局

茶阿局は、1555年に山梨県の甲府で生まれました。

そのときの名前は須和といいます。

父は、武田信玄の家臣であった飯田直政という人物です。

飯田直政は、武田信玄の家臣でしたが、その後今川義元の家臣となりました。

その縁から須和は、神尾忠重と結婚して一男を授かります。

しかし、神尾忠重は亡くなってしまい、その二年後に徳川家康に見初められ、側室となりました。

このときから茶阿局は、浜松城で暮らすことになります。

第2代将軍徳川秀忠を養育した茶阿局

徳川家康と茶阿局とのあいだには、子どもができませんでした。

けれど茶阿局と同じ側室であった西郷局が亡くなると、徳川家康と西郷局との間にできた子の養育を担当することになります。

養育した子は二人で、ひとりが四男の松平忠吉、そしてもうひとりが、第二代将軍徳川秀忠でした。

徳川家康が最も愛した側室

茶阿局は家康に最も愛された側室といわれているのですが、それは美しさや馬術、武術に長けていたことだけではなかったようです。

大変賢い女性でもあったようで、戦いの才略は、家臣たちにも一目を置かれ、大坂冬の陣では、本多忠純とともに、徳川の代表として和議のため大坂城まで出向いたといいます。

徳川家康が没してからも江戸に

茶阿局は、徳川家康が亡くなると江戸城の竹橋あたりにお屋敷を与えられました。

仏門に入り尼になるというようなこともなく、引き続き徳川家のために尽力したといいます。

高田殿と呼ばれた茶阿局

三代将軍徳川家光が弓馬の練習用馬場をつくったことで、高田馬場とよばれるようになったJR山手線「高田馬場」周辺。

高田馬場といえば、早稲田大学をはじめ、多くの学校が立ち並び、学生の多い街として有名です。

徳川家康と茶阿局の時代のこの地は、森林が豊かで、自然そのままの美しい景観だったそうです。

茶阿局はこの地を大変愛していて、よく出向いていたそう。

優秀な人材を輩出する学生街として、今もなお栄えているのは、才色兼備、文武両道であった茶阿局が愛した地であったことのお陰かもしれません。

 

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高田馬場へのアクセス

JR山手線 高田馬場駅下車

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rico

教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。

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