武将愛 SAMURAI HEART

100名城を巡る 鹿児島城

2024.01.28

この連載は、公益財団法人日本城郭協会が定めた「日本100名城」の中で、
筆者が訪れたことがあるお城を紹介してゆくものである。
なお、城郭名は「日本100名城」の表記に合わせ記してゆく。

日本最大の城門がある、「島津氏」の居城だった「鹿児島城」

今回の史跡は、日本100名城の97番、鹿児島県鹿児島市の「鹿児島城」。

1601年(慶長6年)、島津忠恒が築城したのがはじまりといわれ、
鶴が羽を広げた様に似ていることから、「鶴丸城」の名でも親しまれています。

当初は、背後にある城山に本丸と二之丸、麓に屋形を置くかたちで築城され、
江戸時代後半頃に麓の居所が本丸と二之丸となったもよう。
関ヶ原の戦い後、「島津氏」の薩摩藩は77万石の大藩となりましたが、
幕府を刺激しないよう天守を建てなかったといわれております。

1604年(慶長6年)に島津忠恒が鹿児島城へ入城するも、
1696年(元禄9年)に起こった大火で本丸が焼失。
その後復旧するも、1873年(明治6年)に本丸は再び焼失の憂き目に遭いました。

現在、本丸跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館、
二之丸跡には鹿児島県立図書館が建っており、
2020年には御楼門(ごろうもん)が復元されております。

「島津氏」が築城した「鹿児島城」の見学ルート①

・黎明館の駐車場から、二之丸跡へ続く階段を下へ
まずは、左手にある「本丸石垣」を見てゆきましょう

・「石垣」の下部は、かつて水堀だったとか

・こちらは、「二之丸跡」から見た本丸跡東側の石垣と水堀

・現在、「二之丸跡」には鹿児島県立図書館が建っております

・図書館への入口は、かつて二之丸跡の城門だった「矢来御門跡」

・矢来御門跡から石垣沿いに北上してゆくと、
二之丸跡石垣と一体化したド迫力の「アコウ」の木があります

・さらに進み、二之丸跡と本丸跡の境目あたりを外側からチェック
右側本丸跡石垣の上には、かつて御角櫓が建っていたとか

・さらに進むと、「鹿児島城」に用いられた石垣の積み方を説明する展示物が
一枚目写真、左から「金場取残積み」、「亀甲積み」、「算木積み」です

・そして、いよいよ2020年に復元されたド迫力の御楼門へ

・こちらは御楼門の復元前、2017年当時の写真です

 

「鹿児島城」を築城した頃の「島津氏」

1587年(天正15年)、豊臣秀吉による九州攻めが行われると、
島津氏16代当主だった島津義久は、九州制覇を目前にして降伏。
自身は隠居し、弟の島津義弘に家督を譲る形になったといわれております。

しかし、隠居後も島津義久は実権を握り続け、
正式に家督相続がおこなわれたという裏付けも今のところないとのこと。
実質的にこの時期の「島津氏」は、薩摩をまとめる反豊臣方の島津義久と
豊臣方との折衝を行う島津義弘という二人のトップがいる状態だったようです。

その後、1600年(慶長5年)に行われたのが関ヶ原の戦い。
「庄内の乱」という内乱が起こるさなか、島津義弘が兵を率い西軍に参加。
徳川家康と敵対したことで処分は免れられないと思いきや、島津征伐は結局行われず。

「義弘の単独行動で、島津家に咎めなし。義弘は仲がいいので処分しない。」
と徳川家康は島津征伐をしなかった理由を語った、というお話もありますが、
実際のところは島津征伐を行った際の損害を恐れて折れたのでしょう。

講和交渉は約2年にわたって行われ、交渉は終始「島津氏」のペース。
徳川家康は講和交渉において島津義久の上洛を条件としたようですが、
島津義久はこれをのらりくらりとかわし、島津忠恒が上洛することで決着しました。

1606年(慶長11年)には、島津忠恒が徳川家康から偏諱(へんき)を受け
「島津家久」となり、同時期に「鹿児島城」を築城し本拠地に。
この頃には家督が島津忠恒(島津義弘の実子、島津義久の婿養子)に移っており、
当主は島津忠恒ですが、隠居した島津義久、島津義弘もまだまだ力を持つ
「三殿体制」という状態になっていたようです。

一時期は3人がトップに立ち派閥ができるという不安定な時期もありましたが、
この時期を乗り切り、「島津氏」は後の世で大きな役割を果たすこととなります。

敵中突破 関ケ原合戦の「島津」の退き口とは 1

敵中突破 関ケ原合戦の「島津」の退き口とは 2

「島津氏」が築城した「鹿児島城」の見学ルート②

・御楼門をくぐり、見上げたり振り返ったりして木造の良さを堪能

・御楼門の先にあるのは、西南戦争の激しさを物語る「石垣」
くぼみは銃弾によるもので、いまだ破片が残る箇所もあります

・この坂を上れば「本丸跡」、正面に見えるのは郷土博物館である「黎明館」

・本丸跡から御楼門の方を振り返り一枚、左奥に見えるのは桜島です

・本丸跡北東側にある、大河ドラマの主人公になった「天璋院篤姫像」
初めてミシンを使った日本人としても知られております

・「黎明館」入口付近の城下絵図を見てから、館内も見学
展示物はもちろん、「鹿児島城」に関する資料もこちらでチェックしましょう

・黎明館を出て右手に進めば、左手には「七高生久遠の像」が
かつてこの地にあった第七高等学校造士館ゆかりの像だとか

・本丸跡を南西方向へ進んだあたりから振り返り、全体を見渡す
このあたり、往時は「麒麟の間跡」「能舞台跡」があったようです

・隣には「庭園跡」、写真奥方には「御角櫓跡」という位置関係
道沿いに西へ進めば、駐車場へ戻ることができます

 


 

本丸跡の北側にある鹿児島医療センターの「銃痕が残る石垣」、
西郷隆盛終焉の地である「城山公園」もあわせて巡るのがおススメ


「西郷隆盛像」と背後の城山

今回の史跡「鹿児島城」

鹿児島城跡
場所:鹿児島県鹿児島市城山町7−2

電車でのアクセス:JR鹿児島本線「鹿児島駅」から南西へ徒歩約15分
市電「市役所前駅」から西へ徒歩約5分
車等でのアクセス:「黎明館」駐車場から徒歩約5分

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

九州地方の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ