武将愛 SAMURAI HEART

続100名城を巡る 久留米城

2024.10.14

この連載は、公益財団法人日本城郭協会が定めた「続日本100名城」の中で、
筆者が訪れたことがあるお城を紹介してゆくものである。
なお、城郭名は「続日本100名城」の表記に合わせ記してゆく。

有馬豊氏が4代に渡り完成させた石垣の名城「久留米城」

今回の史跡は、続日本100名城の183番、福岡県久留米市の「久留米城」。

詳しい築城年も築城主も不明ですが、
室町時代後期にあたる永正年間(1504~1521年)頃この地に築かれた
小規模な砦程度の「篠原城(笹原城)」が始まりだといわれております。

天文年間(1532~1555年)に御井郡司(みいぐんじ)の某が修築。
1573年(天正元年)頃には高良山の座主良寛の弟・鱗圭が城主になったようです。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉による九州平定が成されると、
鱗圭に代わり小早川隆景の養子である小早川秀包が入城。
小早川秀包は久留米城を近世城郭として大改修しましたが、
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍につき改易となります。

小早川秀包の改易後、田中吉政の次男である田中吉信が入城し改修、
その後田中氏も改易となった1621年(元和7年)には有馬豊氏(ありまとようじ)が久留米藩主に。
有馬氏は4代にわたる改修を施し、約70年で久留米城の縄張りを完成させました。

1871年(明治4年)の廃藩置県で廃城となり建築物は解体、
1877年(明治10年)には、本丸御殿跡に歴代藩主を祀る篠山神社が創建。
現在残るのは本丸のみですが、現存する高石垣と堀は一見の価値ありです。

 

九州平定に関連する記事はこちら「足跡を巡る 豊臣秀吉の巻:其の六」」

 

 

「久留米城」の見学ルート①

・現在本丸跡に鎮座する「篠山神社」にお参りしてからスタート

・「篠山神社」の隣には、「本丸御殿跡」の石碑もあり

・まずは東へ進み、月見櫓跡がある方へ行きましょう
道中には「聖徳太子像」、すぐ側に案内板があります

・案内板を確認後、かつて三重櫓が建っていた本丸東側の「月見櫓跡」へ
矢穴石も楽しめますが、高所が苦手なため恐る恐る探索しました…

・月見櫓跡下、「東御門」があったあたりと階段を見下ろす

・本丸跡を北へ移動し、北東方向にある「艮(うしとら)櫓跡」へ
こちらには、芸術作品のような謎の石があります

・艮櫓跡を後にし、かつて多門櫓が伸びていた道を西方向へ移動

・本丸北西隅にある「乾(いぬい)櫓跡」から、隣を流れる筑後川を望む

・篠山神社の方まで戻り、「大乗院稲荷神社」あたりへ
残念ながら、訪れた時(2024年9月)付近は立ち入りが制限されておりました

 

「久留米城」を近世城郭とした小早川秀包の生涯

小早川秀包(幼名は才菊丸)は、毛利元就の九男として
1567年(永禄10年)に生誕。ちなみに、毛利元就71歳の時の子だそうな。

1571年(元亀2年)に安芸国の戸坂氏、同じ年に備後国の太田氏、
さらに1579年(天正7年)には兄である小早川隆景のもとへ養子入り。
1583年(天正11年)に羽柴秀吉のもとへ人質として送られた際に
気に入られて「秀」の字を頂き、この頃から「小早川秀包」と名乗ったようです。

容姿にも武勇にも恵まれていたといわれる小早川秀包は、
紀州攻めや四国攻め、小早川隆景とともに九州攻めなどに参戦し活躍。
小早川隆景が筑前と筑後を頂いた際に、筑後を領し久留米城を築城します。

小早川秀包を跡継ぎとする小早川家は今後も安泰…と思いきや、
1594年(文禄3年)に小早川家へ「羽柴秀俊」が養子入りすると事態は一変。
豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の甥であった羽柴秀俊の養子入りを巡って、
豊臣家と小早川家双方に様々な思惑が渦巻いていたようですが、
この一件により羽柴秀俊は「小早川秀秋」と名を変え跡継ぎとなり、小早川秀包は廃嫡に。

その後小早川秀包はやむなく小早川家を去り、別家を立てて毛利姓に復姓。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは毛利本家に従い西軍につくも敗北、
改易により筑後から長門へ移り、翌年に病で亡くなったといわれております。

 

「久留米城」の見学ルート②

・篠山神社前を通過し、東御門跡まで進み階段から下へ
「月見櫓跡」の見事な高石垣を堪能しましょう

・東御門跡の下には、「蜜柑丸跡」という腰曲輪が
その名からわかるように、往時は蜜柑の木が植えられていたそうです

・石垣を右手に見ながら南方向へ進むと見えてくるのは「巽(たつみ)櫓跡」
南側には内堀も残っており、写真を撮ったあたりも往時は内堀だったとか

・冠木御門跡を通り過ぎ、見事な石垣を見ながら西端まで移動
こちら側石垣上は、左から「坤(ひつじさる)櫓跡」と「太鼓櫓跡」

・少し戻り、大手口にあたる「冠木御門跡」から篠山神社の方へ

・冠木御門跡を右手に入り、「巽櫓跡」を下からチェック

・こちらは冠木御門跡の西側、「太鼓櫓跡」から「坤櫓跡」を見る図

・本丸跡へ戻り「巽櫓跡」へ、久留米城にはかつて7基の三重櫓があり、
中でも最大だった巽櫓は天守の代わりに使われていたそうです

・有馬記念館前には現存の「井戸」もありますので、こちらも要チェック

 


歩いて20分くらいの距離にある家庭裁判所側には土塁が、
久留米城から東へ車で30分くらいの距離にある「寿本寺」には
移築した水の手御門があり、時間に余裕があれば訪れたいところです。


「篠山神社」の切り絵御朱印

今回の史跡「久留米城」

場所:福岡県久留米市篠山町444

電車でのアクセス:JR「久留米駅」下車後、北東方面へ徒歩20分
車等でのアクセス:九州縦貫自動車道「久留米IC」から西方向へ約15分

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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