武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2021年6月26日記事のため内容が古い可能性があります。

足跡を巡る 豊臣秀吉の巻:其の六

2021.06.26

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

紀州攻め

難敵・徳川家康との戦を終えた秀吉は、すぐに敵対した勢力を潰しにかかります。

まず標的となったのが、根来寺の根来衆と雑賀衆のいる紀州。
圧倒的な兵力で攻略してゆき、あっという間に根来寺を陥落させます。

雑賀衆が立て籠もった太田城も、得意の水攻めでじわじわと攻略。
抵抗勢力をわずかに残したものの、この時点でほぼ紀州攻めは終えたといえるでしょう。

根来寺
所在地:和歌山県岩出市根来2286

太田城跡(来迎寺)
所在地:和歌山県和歌山市太田2丁目3−7

四国攻めと越中攻め

紀州攻めの勢いそのままに、お次は弟・秀長を総大将に据えて四国攻めへ。
四国の覇者・長曾我部元親も、その勢いに抗えず秀吉の軍門に降ります。

この間に関白就任を果たしていた秀吉は、すぐに越中へも派兵。
これに対し富山城の佐々成政は戦力差を悟り降伏、秀吉へ恭順の意を示します。

富山城跡(富山城址公園)
所在地:富山県富山市本丸1

岩屋城の戦いと戸次川の戦い

その頃九州では、九州制覇を目前にした島津氏が大友氏と戦の真っ只中。
この時発した停戦命令を島津氏が拒否したため、秀吉は島津討伐に踏み切ります。

岩屋城で寡勢の高橋紹運が島津軍を相手に奮闘、立花宗茂も立花山城で
島津軍を釘付けにするなど、大友氏の重臣たちが決死の覚悟で島津軍を足止め。
その間に、秀吉の命を受けた毛利軍、仙石秀久率いる四国勢の軍が九州へ上陸します。

戸次川の戦いでは、島津家久の術中にはまり大敗を喫するものの、
兵力で圧倒し徐々に島津軍を南へ押し返してゆきます。

こちらは、戸次川の戦いで討死にした長宗我部信親のお墓。

岩屋城跡
所在地:福岡県太宰府市観世音寺704

戸次川古戦場跡
所在地:大分県大分市中戸次

長宗我部信親の墓
所在地:大分県大分市上戸次4799−3

九州平定

年が明けて、1587年。前年に豊臣姓を賜り太政大臣にも就任、
あの手この手で徳川家康を臣従させた秀吉は、自ら軍を率いて九州へと入ります。

10万を超えるという豊臣軍を前に、島津方から離反する者たちが続出。
高城の救援にも失敗し、根白坂の戦いで敗れた島津軍はさらなる窮地に。

島津軍は佐土原城、都於郡城へ退却し立て直しを図るも、速攻を仕掛けられ万事休す。
もはやこれまでと島津義久が剃髪し降伏、秀吉はここに九州平定を成し遂げます。


上の写真が佐土原城跡、下の写真が都於郡城跡です。


紀州攻めから、わずか2年あまりで西国平定を成し遂げた秀吉。
並び無き権勢そのままに、次なる標的を関東と奥羽へ絞ります。

高城跡
所在地:宮崎県児湯郡木城町高城

佐土原城跡
所在地:宮崎県宮崎市佐土原町上田島

都於郡城跡
所在地:宮崎県西都市鹿野田

おまけ

其の一は、岩屋城跡のすぐ近くにある高橋紹運の墓。
島津氏の九州制覇は、この人に阻まれたと言っても過言ではないでしょう。

其の二は、戦国島津氏始まりの地である伊作城跡。
島津義久、義弘、歳久、家久の島津四兄弟もここで生まれました。

高橋紹運の墓
所在地:福岡県太宰府市観世音寺704

伊作城跡
所在地:鹿児島県日置市吹上町中原3415

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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