どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2019.07.02
岐阜県大垣市の墨俣城は、別名の「一夜城」のほうが有名かもしれません。築城時期ははっきりとしていませんが、織田信長の美濃侵略にあたり、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)が短期間で城を築いたといわれるお城です。
さすがに一晩で城は作れませんが、かなり築城スピードが早かったそうです。
現在は墨俣一夜城として、大垣城の天守を模した歴史資料館となっています。資料館を見ると当時の墨俣城がどんなものだったのかがわかります。
稲葉城の戦いは桶狭間合戦以降、徳川家康と清洲同盟を結び本格的に始まります。翌永禄4年(1561年)に、5月、森部村(安八町)の森部の戦いで勝利し、十四条の戦いでも勝利した織田軍ですが、稲葉城の攻略はできず撤退。
永禄6年(1563年)には新加納の戦いで斎藤龍興と戦い敗れてしまいます。その後、斉藤家の家老らの造反などもあり、時を経て永禄10年、斎藤龍興のいる稲葉山城を尾張勢約5000、墨俣城より約2000の軍勢と水陸両方から攻め込み、3日の交戦の末、斎藤龍興は長島へ逃亡します。朝倉氏を頼りますが、織田信長に滅ぼされた時に運命を共にしたと言われ、斎藤氏は滅亡。美濃は織田信長の手中となりました。
あっさりと美濃侵略ができたわけではなく、約6年間にもわたる長い戦いが繰り広げられていました。
一夜で城を築くことの不可能さから、伝説の城だと思われていた墨俣城は、稲葉山城攻めにおける需要拠点でした。資料館では、史実としては、武功夜話という愛知県江南市の前野家から発見された『前野家古文書』に基づいた展示を行っています。
城というと天守がある権威性のあるものや、籠城戦に耐えられるような堅牢なものを想像してしまいがちですが、墨俣城は砦のようなもので、岐阜城対策のための附城的な存在。資料館の復元模型を見ると、周囲を囲み、四方に櫓を配置したもの。
なぜこの場所に作ったかですが、墨俣など木曽川周辺は輪中がいくつもできている状態で、川の中に島が点在しているような状態。その中でも城が作られたあたりは、比較的大きな輪中で岐阜城から存在が見えづらく、建築の様子も隠せる。しかも川を使えばほぼ一直線に攻め込める場所。
そこに2000もの兵を隠しておけたのですね。
こうした稲葉山城攻めの歴史と、輪中を活かした立地や模型を見るだけでも楽しめます。裏手には豊臣秀吉を祀った神社、豊国神社も。
墨俣宿の歴史もともに散策すると、交通の要所であったことがよくわかりより理解が深まります。
大垣市墨俣町墨俣1742-1
TEL:0584-62-3322
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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