足跡を巡る 伊達政宗の巻:後編
2022.12.11
2024.02.20
丸亀市のシンボル丸亀城。
標高66mの高台につくられた天守は、現存ずる木造天守12城のひとつです。
三層三階の天守は、国宝である姫路城、松本城、彦根城、犬山城の3城のほか、国の重要文化財である7城、高知城、宇和島城、松山城、備中松山城、松江城、丸岡城、弘前城を合わせた12城が現存天守です。
丸亀城の三層三階の天守は、高さ約15mの日本で一番小さな木造天守です。
丸亀城の天守からはこのように瀬戸内海を一望できます。
少し靄がかかっていて海がわかりにくいですが、先の方には海があります。
石垣の名城として有名な丸亀城の石垣は、天守から見て曲線を描き、外に向く『扇の勾配』と呼ばれています。
敵の侵入を防ぐことも考えられた隙間がないように積み上げた石垣は、まさに職人技です。
この丸亀城は、1587年に豊臣秀吉によって播州赤穂から堀と石垣讃岐17万6千石を与えられた「生駒親正」が讃岐に入って高松城を築城した後、西讃岐の鎮めの城として1597年から6年もの年月をかけて丸亀城を築城しました。
これ以前からあったとされる丸亀城ですが、現存する丸亀城の骨格は、ほぼ「生駒親正」の手によって築城されたそうです。
さて、その丸亀城を築城した「生駒親正」は、豊臣政権の中老という要職に就いていましたが、1598年に豊臣秀吉が亡くなると、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成の軍について徳川家康と戦いました。
けれど、「生駒親正」の子どもである生駒一正は、織田信長や羽柴秀吉に仕えて数々の合戦で功績を挙げた後、徳川家康の軍についていたため、関ヶ原の戦いでも徳川家康の軍につき戦いました。
真田家も親子兄弟が対立の立場で戦った関が原の戦いですが、ここでもまた親子に悲劇が訪れていました。
結果、生駒一正は、徳川家康からその功績が認められて讃岐国の国主となりました。
「生駒親正」は、生駒一正の功績があったため、罪を問われることはありませんでした。
生駒一正は高松藩の藩主となったため、一国一城令によって、丸亀城は一時廃止となってしまったのですが、そののち入封した山崎家や京極家によって、現在まで城の形を築き上げられてきました。
丸亀城のつくりは、織田信長の築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大坂城がお手本にされていて、城郭だけでなく武家屋敷や城下町も濠や土塁で囲んでしまった『総構(そうがまえ)』となっているのも特徴です。
これによって、敵の侵入を防ぐ力が強くなり、また人々を守ることもできます。
まとめ
関ヶ原の戦いで親、兄弟が敵となることで有名なのが真田信幸、信繁兄弟、そして父昌幸。
けれど親子で敵となり戦ったのは真田家だけではありませんでした。
もちろん、この生駒家以外にも親子で分かれて戦ったという事実が確認されています。
とても切ないですね。人が戦うべきものは本当にあるのでしょうか。どのようなことも戦わず解決できることがあるのでは?そんなことを考えますね。
香川県丸亀市一番丁
JR丸亀駅下車 徒歩10分
【観覧】
天守
9:00~16:30(入場16:00まで)
入城料:大人 200円 / 小人(小・中学生) 100円
丸亀市に住所を有する65歳以上の人と心身障がい者(児)とその介護者は無料です。
大手一の門
9:00~16:00
入城料:無料
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rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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