足跡を巡る 豊臣秀吉の巻:其の七
2021.07.30
2024.03.31
この連載は、公益財団法人日本城郭協会が定めた「日本100名城」の中で、
筆者が訪れたことがあるお城を紹介してゆくものである。
なお、城郭名は「日本100名城」の表記に合わせ記してゆく。
今回の史跡は、「日本100名城」の61番、奈良県高市郡高取町の「高取城」。
南北朝時代にあたる元弘年間(1331~1334年)、
南朝方の豪族である越智邦澄(おちくにずみ)が築城したといわれている城。
長らく越智氏の本拠地として機能していたものの、
この当時の「高取城」は、土を掻き揚げて空堀を掘るといった規模の
「掻揚城(かきあげのしろ)」であったといわれております。
1580年(天正8年)織田信長の命により一旦廃城となるものの、
1583年(天正11年)に越智氏が滅亡すると筒井順慶が詰城として整備。
筒井氏が代替わりし1585年(天正13年)に伊賀上野へ移封されると、
羽柴秀吉の弟である羽柴秀長が大和国へ入国します。
この時、羽柴秀長の重臣だった脇坂氏、次いで本多氏が「高取城」へ入城。
1589年(天正17年)には本多利久が「高取城」の大改修を行い、
白漆喰の天守や27棟もの櫓が建つ城へと生まれ変わったようです。
山麓につくられた城下町から見上げると白い建物群は壮観だったようで、
「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ 土佐(旧名)の城」と歌われたとか。
その後、本多氏が1637年(寛永14年)に無嗣断絶(むしだんぜつ)となると、
1640年(寛永17)には植村家政が入城、以後幕末まで植村氏の居城となりました。
・山上まで車でのぼり、終点の壺阪口の入口からスタート
縄張り図が載っている案内板は必ずチェックしましょう
・5分ほど登ると、まずは「壺阪口門跡」が見えてきます
この門跡から先が、「高取城」の城内と呼ばれる範囲だとか
・壺阪口門跡を通過し、右手に「壺阪口曲輪」を見ながら階段を上へ
石垣を堪能しながら「壺阪口中門跡」まで進んでゆきます
・道なりに進み、突き当りの右手にある「大手門跡」へ
建築物CG図と古写真をみて、ここで在りし日のお姿を想像しましょう
・大手門跡の先にあるこの「十三間多門跡」から二の丸へ進入
・「二の丸」から本丸のある東方面を見た図
正面に見えるのは、「太鼓櫓跡」と「新櫓跡」の石垣です
・北側の「十五間多門跡」から、いよいよ本丸側へ
・内側からと上から「太鼓櫓跡」と「新櫓跡」の石垣を見学
1550年(天文19年)に2歳で家督を継いだ筒井順慶は、
松永久秀らとの激しい争い、織田信長への臣従を経て大和国の平定に成功します。
この時期、「高取城」には同じく織田信長に臣従していた越智氏がおりましたが、
筒井順慶が郡山城を改修し本城とすると、織田信長は郡山城以外の破却を命令。
理由は「大和は平定したから城は一つでよい」と考えたからといわれておりますが、
結果として「高取城」は1580年(天正8年)に廃城となります。
しかし、1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が急逝すると、
筒井順慶は戦乱に備え、越智氏亡き後の「高取城」などを整備。
その後の1585年(天正13年)、羽柴秀長が紀州攻め後に大和国を任されると、
羽柴秀長の重臣・本多利久が「高取城」の大改修を施すことに。
本多氏は後に豊臣秀吉の直臣となり、豊臣秀吉没後は徳川家康に接近、
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでも、本多利久・俊正父子は東軍に与します。
この時、高取城が西軍に攻められたものの本多氏家臣たちが奮闘し撃退したとか。
戦後は本領を安堵され、本多家は安泰かに見えましたが、
次代の本多政武に世継ぎがいなかったため、本多家は改易となってしまいます。
・「高取城」といえばここ、本丸の「大天守台」石垣を下から堪能
「大天守台」手前の巨大な大杉は、「芙蓉姫」という御神木です
・複雑なつくりの虎口を通過し、「天守曲輪」の中へ
・大天守台横にある「具足櫓跡」から見た虎口
写真奥の方には、かつて鉛櫓と煙硝櫓が建っていたそうです
・転用石が使われている「大天守台」穴蔵の石垣と井戸
・本丸南側の石垣を、恐る恐る上から撮影
・天守曲輪から降り、石垣を見ながら北東側から南側へ移動
・先ほど上から見た南側石垣を下から、美しいカーブに惚れ惚れしますね
・お次は大手門跡の方まで戻り、「井戸曲輪」の方へ降りてゆきましょう
・南東にある吉野口までの道中、右上方には天守台石垣も見られます
・「喰違門跡」と、左手に見られる「吉野口曲輪」西側の石垣
・この石垣の先にある吉野口門跡を見た後、井戸曲輪の方まで大返し
タイムリミットが迫っていたため、急いで二の門跡まで移動
・宇陀門跡から三の門跡まで足早に見学し「二の門跡」へ
「二の門跡」の隣にある、山城には珍しい「水堀」は要チェックです
車で山上まで登ったものの、3時間ではとても全体を見て周れず…
この時もシンボルである「猿石」や「国見櫓跡」を見逃してしまいました。
次回はかなり余裕を持った時間配分で、ゆっくり見学しようと思います。
10年くらい前に撮影した「猿石」
高取城跡
場所:奈良県高市郡高取町高取
電車でのアクセス:近鉄「壺阪山駅」から、奈良交通バスで壺阪寺まで約11分
壺阪寺から本丸跡まで徒歩約60分
車等でのアクセス:西名阪自動車道「郡山IC」から南方向へ約50分
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新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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