信長・秀吉・家康と三英傑にゆかりのある「大徳寺」をご紹介
2024.07.30
2021.04.30
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
1582年、秀吉は清水宗治が守る備中高松城の攻略を開始。
当初は、沼地に囲まれるこの城を攻めあぐねていましたが、
黒田官兵衛が献策した水攻めを採用し敵地を水没させます。
秀吉は石井山に陣を敷き、ここから高松城の様子を注視。
これはかなわん、と毛利方から持ちかけられた和議交渉を優位に進め、
もはや陥落間近という最中、秀吉のもとにあの凶報が舞い込んできます。
備中高松城跡
所在地:岡山県岡山市北区高松558−2
石井山(羽柴秀吉本陣跡)
所在地:岡山県岡山市北区立田
主君・信長が、明智光秀に本能寺で討たれる。
この信じがたい報せを受けたときの秀吉の様子には諸説ありますが、
「急ぎ戻り、弔い合戦を」と気持ちを切り替えたのは間違いないでしょう。
秀吉は毛利方との和議を成立させた後、すぐに東方に「大返し」へ。
情勢を見つつ驚異的なスピードで姫路城まで戻り、明智方の様子を窺います。
一方の明智光秀。信長を討った後、近隣の有力者たちを味方につけようと
画策しますが、日野城主・蒲生賢秀や大和郡山城主・筒井順慶はこれに応じず。
さらに、一番頼りにしていたであろう細川藤孝は剃髪し田辺城へ隠居してしまい、
光秀は思うように態勢を整えることができず。誤算の連続となってしまいました。
姫路城
所在地:兵庫県姫路市本町68
大和郡山城跡(郡山城跡公園)
所在地:奈良県大和郡山市城内町2−255
田辺城跡(舞鶴公園)
所在地:京都府舞鶴市南田辺15−22
繰り出す策が実を結ぶ秀吉と、何もかも思惑通りにいかない光秀。
「信長の後継者」を争う対象的な両雄は、山崎の天王山で激突します。
一進一退の戦いは、数に勝る秀吉軍が勝龍寺城まで攻め落とし勝利。
光秀は再起を期し退却しますが、小栗栖で落ち武者狩りにあい自刃の憂れき目に。
備中高松城攻めから山崎の合戦まで、わずか2ヶ月足らずの期間。
この間に、秀吉は信長の後継者として確固たる地位を築いたといえるでしょう。
山崎合戦古戦場(天王山夢ほたる公園)
所在地:京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田
勝龍寺城跡(勝竜寺城公園)
所在地:京都府長岡京市勝竜寺13−1
其の一は、水攻め時の遺構がわずかに残る蛙が鼻築堤跡。
秀吉がいかに巨大な堤防を築き上げたか、その名残を感じられる場所です。
其の二は、清水宗治が見事な切腹をしたという自刃の地。
その後を追い家臣が殉死したという、ごうやぶ遺跡も近くにあります。
蛙が鼻築堤跡(高松城水攻め史跡公園)
所在地:岡山県岡山市北区立田806−2
清水宗治自刃の地
所在地:岡山県岡山市北区高松689
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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