愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2017.11.02
福島正則が開削し、名古屋城の物流、名古屋の経済発展に大きな影響を及ぼした堀川。
その堀川には7つの橋があったのはご存知でしょうか。
橋と言えば納屋橋、五条橋がわりと知られている橋のようなイメージですが、江戸時代はそれぞれ橋の立地により個性のある町になっていました。
実は納屋橋よりも、中橋、伝馬橋のほうが栄えていたなど今とはイメージの違う堀川の橋。
江戸時代にはどんな特徴があったのか、『堀川 歴史と文化の探索』という本を参考に、当時の堀川7橋の様子などを調べてみました。
堀川の一番上流にかかる橋で、名古屋城にもっとも近い橋。
五条橋の擬宝珠は、慶長7年と書いてありますが、この橋がかけられたのは慶長15年。清越しの時に清洲から持ってきたものを使っているということで、名古屋市博物館に所蔵されていることでも有名です。
五条橋と伝馬橋の間なので「中橋」と呼ばれるようです。
江戸時代、堀川の中で一番経済活動が活発だった地域と言われています。
西側には川伊藤家や青木家をはじめ豪商たちが、美濃街道沿いにお屋敷を構えていました。
東側は木曽剤などを取り扱う木商や、薪・竹などを扱う商品が軒を連ねていたそうです。
西と東、両岸の商業活動が便利になるような橋だったとも考えられます。
こちらは以前紹介した、ブラタモリで紹介された石垣のあるカフェのある場所です。
伝馬場は美濃街道が通り、堀川で一番賑わっていた橋。今の伏見通りにちょうど位置します。
美濃街道は東海道と中山道を結ぶ脇街道で、両方の道を連絡する道として非常に重要な道でした。
幕府の道中奉行が管理する約59キロの熱田から名古屋を経て、岐阜県の垂井まで続く街道なのだそうです。
お役人さんも旅人もいろいろな人が、行き交う需要な橋だったんですね。
名古屋城下に入るための玄関口の一つ、 枇杷島口から上官入る脇街道筋の橋でもありました。
今では賑わっていますが、江戸時代はそこまではなかったと思われる納屋橋。
1660年の「万治の大火」で大きな被害を受けた納屋橋は、そのあと道が大きく広がり「広小路」と呼ばれるように。
今のような繁華街になったのは、明治になって笹島に東海道線の駅ができ、明治19年に駅と城下町をむすぶ道が拡幅されたことがきっかけとなります。
江戸時代から栄えていた橋ではなかったのですね。
今では納屋橋でイベントが行われたり、飲食店が立ち並ぶなど堀川と言えばココ、という代表的場場所になっています。
大須観音からやや南の方にいった場所にありました。
堀川の花見で有名だった橋で、城下の郊外の橋。
納屋橋より上流は基盤割に隣接する商業施設でしたが、一歩外れた日置橋はのどかな光景が残ったようです。
洲崎神社の巻藁船、堀川水神祭も行われ、住民の憩いの場として知られていたのかもしれません。
日置橋から1キロメートルほど下流にかかるのが古渡橋で、その界隈が発展したというよりも単に両岸をつなぐ橋としての
役割がメインだったようです。
一番下流にかかっていたのがこの尾頭橋で、東海道の熱田から桑名までは七里の渡しの船旅となった場所。
三代将軍家光が通行した時、道も整備されたそうです。
最初は亀屋橋のところを通る道筋から、道中奉行が管理する官道に指定されて尾頭橋を通るルートになったそうです。
橋と街道によって賑わいが違ったということがわかりました。
納屋橋の今の発展は火事による道幅拡大工事、明治時代に名古屋駅ができたことなどが関係しているというのも面白かったです。
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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