どこにいた家康 Vol.45 名古屋城
2023.11.25
名古屋城は外堀を含めておよそ35万3000平方メートルと言われています。
名古屋城は徳川家康が9男義直のために建てた城ですが、実はそのはるか昔に「那古屋城」として建てられておりしばらく廃城となっていました。
初代城主は1521年、今川氏豊です。氏豊は今川氏親の子で、連歌に興じた文化人だったようです。しかし1538年織田信長の父、織田信秀がその城を奪い、以降は織田家の城となりました。奪った時はまだ桶狭間の戦いは起きていないというのが、興味深いところですね。信長は幼少期を那古屋城で過ごし、その後1555年に清州城に引っ越し。留守になった那古屋城を叔父の信光が継ぎますが、家臣に殺され林秀貞が城主となり、以降25年間廃城となります。
時は流れ、関が原の戦いで勝利し、江戸幕府を開き天下人となった徳川家康。大阪の陣に向け、対豊臣対策で包囲網を作っていくため、1609年、「天下普請」家康の命を受けて名古屋城が築城されます。
加藤清正、黒田長政など20もの大名に号令をかけ、工事役夫はのべ558万8500人という大工事でした。
ちなみに20大名は、前田利光、金森可重、池田輝政、浅野幸長、生駒正俊、福島正則、蜂須賀至鎮、山内忠義、稲葉典道、加藤嘉明、毛利秀就、細川忠興、黒田長政、寺沢広高、鍋島勝茂、田中忠政、加藤清正。
加藤清正の銅像が名古屋城にはありますが、その理由は加藤清正が担当したところは天守であって、武者返し、連続枡形虎口など防御性を兼ね備えた素晴らしい建築を行った功績をたたえてのこと。大きな石の上に乗って、石引きの職人たちを鼓舞したというエピソードが、名古屋城の銅像で表現されています。
結果的に名古屋城で戦いをすることはありませんでしたが、建設している大名が戦う気を失うほど堅牢なつくりです。
たくさんの職人が出入りしていたため、石を間違えてしまわないよう刻文と呼ばれるマークがたくさん入っているのは、当時の名残です。
なぜ9男のための城をここまでにしたのかというと、完全な豊臣対策です。当時の清州城は豊臣恩顧の福島正則が城主でしたが、家康は秋の国に転封し、清州城には4男の松平忠吉、9男の義直を淹れます。そして1609年に那古屋城跡に名古屋城を築城するにいたりました。
さらに城下町のつくりも画期的で、清須ごと町を引っ越す「清洲越し」は有名です。
名古屋城下は、南に東西11、南北9に区切った99の「基盤割り」で町割りを構成し、町家の植木にいたるまで根こそぎ移転をしました。
1612年から本丸御殿の建築が始まり、1614年には狩野貞信による障壁画がほどこされます。
この本丸御殿は将軍家光の宿泊所として使われたとも言われていますが、結局立ち寄ることはありませんでした。
その後、尾張藩7大目藩主の徳川宗春は将軍吉宗の「享保の改革」を完全無視し、遊郭や芝居小屋などを許可し、「芸どころ名古屋」の土台を築きます。
そして徳川慶勝が高須藩より入り、14代当主となり、御三家筆頭として幕政に関与しますが、大老の井伊直弼と対立。
戊辰戦争では倒幕派に立つことになります。1858年には謹慎となり、襲封。
明治維新の1870年、徳川慶勝は新政府に対し、犠牲者を出さない方法として、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出ます。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に使う予定でしたが、ドイツの公使マックス・フォン・ブラント、大日本帝国陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐が保護を訴えます。その甲斐あって1879年、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定します。
昭和5年には文部省が国宝に認定しますが、第2次世界対戦の薫習により天守、本丸御殿などを焼失。国宝認定された名古屋城は無残にもなくなってしまいました。
しかし名古屋城は地元の人々のシンボル。1957年に天守再建工事がスタートし、2年後に再建。当時では最新鋭の建築技術で、堅牢でエレベーターまでついた近代建築の城となりました。
そして、2009年から本丸御殿の復元工事が10年計画始まります。当時と同じ技法での再現にこだわり、伝統技術をふんだんにあしらった御殿となっています。2013年には玄関・表書院等公開、2016年には対面所が公開になりました。2017年は初めての年始年末カウントダウンイベントの開催や、孔雀の間など一部が一般に貸出開始となるなど、新たな取組みで注目を集めています。
天守閣石垣 北西より
<お堀南側の桜並木>
<名古屋城のカヤ>
高さ十六メートル、幹回り八メートルのカヤの巨木で、推定樹齢は約六百年。
初代藩主徳川義直が大阪に出陣するにあたり身を食べたと伝えられている。
案内看板
<本丸表ニ之門>
本丸大手の外門で内門である表一之門とともに桝形を形成していた。
現存する数少ない名古屋城創建時の建造物である。
<本丸表一之門跡>
外門である表二一之門跡とともに桝形を形成。
入母屋造・本瓦葺の二階建てで門扉の上には石落しを設けていた。
昭和二十年空襲により焼失した。
<本丸御殿>
近世城郭御殿の最高傑作と言われ国宝に指定されていた建物。
現在、国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と言われていました。
<東一之門跡>
本末搦手の内門で、外門である本丸東二之門とともに桝形を形成していた。入母屋造・本瓦葺の二階建てであったが昭和二十年の空襲により焼失した。
<清正石>
名古屋城で最大の石垣石材。搦手桝形は黒田長政の担当であったが、巨石であったので築城の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ清正石と呼ばれてきた
<旧二之丸東二之門>
古くは冠木門(かぶきもん)といわれ、本来は東鉄門というニ之丸東の桝形外門で現在の東門の東側にあった。昭和三十八年に解体され昭和四十七年現在地に移築された。平成二十二年から二十四年にかけて解体修理された。
本丸売店となりの休憩スペース
<小天守閣>
天守閣へとつながる唯一の小天守閣。石落しや総鉄張の扉などで備えたと言われている。
扉を突破し中に入ると中は暗く、さらに外に出るには90度回って次の扉を突破する構造で的に備えた。
<名古屋城天守閣>
天守閣(5層5階地下1階付)は、南側の小天守(2層2階地下1階付)とそれぞれの地階を橋台で結ぶ連結式天守閣
<加藤清正の刻名>
天守の石垣を担当した加藤清正の刻名石「加藤肥後守」などの文字が彫られている
<天守閣へのエレベータ>
<御殿椿>
本丸御殿南側にある銘木「御殿椿」から接木された椿。
三月中旬から四月上旬にかけて八重大輪の白花を咲かせる。
<不明門>
土塀の下に設けられた門、本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。
昭和二十年に焼失し、昭和五十三年に復元された。
下記の写真は槍の穂先を並べた「剣塀」
<天守礎石>
焼失した旧国宝である天守の礎石。地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていた。
焼け跡に残っていたが、天守閣再建時に現在地に移し、かつての敷設状況を再現した。
<御深井丸展示室>
<西側小天守準備穴?>
天守閣の西側にもう一つの小天守を作る計画があったと言われ、この跡は出入り口を塞いだ穴と入られている。
<剣塀>
大天守と小天守を連結する櫓台は、高い土塀で囲われ、塀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。
<鵜の首>
鵜の首とは、堀を内側に入れこみ道幅を狭くした部分。本丸の周囲には、大手・搦手など5か所に鵜の首があり、本丸への敵の侵入をはばんでいた。
GoogleMapの写真などで上から見るとわかりやすい。
<西南隅櫓>
<名古屋城フォトスポット>
天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。
慶応四年(一八六八)正月二十日、二乃丸御殿向屋敷の庭前で、尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件が始まった。昭和の初めに「青松葉事件乃遺跡」碑が、ここから南へ約百メートルの処刑地跡に建立されたが、その後所在不明となったので、ここに復元したものである。
旧・二之丸庭園には、多春園・山下御席・余芳亭・風信亭など六つの茶席があったが、その内でも霜傑亭は最大の規模のもので数奇屋造りの建物であった。発掘調査の結果、「御城御庭絵図」とほぼ一致する霜傑亭跡が確認されたので、亭のうち、畳の部分を五郎太石、廊下の部分を砕石、漆喰たたき、平面部分を小砂利で表示し、建物の構造を理解しやすくしてある。
二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西に長く伸びた練堀の遺溝である。この練堀は「南蛮たたき」で固められた非常に堅固なものであり、円形の鉄砲狭間が見られる。名古屋城の遺跡としては、非常に珍しいもので貴重な文化財である。
二之丸庭園は、文政年間(一八一八~二十九)に大改造された。西隣りにある現在の「名勝・二乃丸庭園」と共に、藩主常住の二乃丸御殿の庭園を形成していた。「御城御庭絵図」によれば、北に権現山、その西に栄螺山を配し、南に大きな池を設け、その間に六つの茶席を点在させるなど、広大な規模であった。明治の初め、陸軍鎮台分宮(のちに第三師団)が郭内に置かれて以来、権現山の南側を削り、池を埋めるなどして兵営化が進められた。昭和五十年、絵図に基づいて一部の発掘調査を行った。それで現れた北池・南池・霜傑亭(茶席)跡・北暗渠の四つの遺溝を中心に整備して、昭和五十三年四月、「二之丸東庭園」として開園した。
埋門とは、城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門をいう。埋門の跡は二之丸庭園の西北の位置にあり城が危急の場合、城主はここから脱出することが決められていた。この門をくぐれば垂直の石段がありこれを降り壕を渡って対岸の御深井丸の庭から土居下を通り大曽根勝川、定光寺を経て木曽路に落ち行くことが極秘の脱出路とされていた。
「御城御庭絵図」には、池の北岸に大きな舟形の一枚岩が張り出し中央部に石組みの島が描かれている。発掘調査では一枚岩は確認出来なかったが、島は現在の池の中に石が三つ並んでいる所の下にあると推定される。池は絵図に描かれているものより大きく頑丈に石組みした深い池で、他に例を見ない規模であったと認められる。
「御城御庭絵図」にある御庭の外側の暗渠式排水路の遺構が、発掘調査したときのままの状態で整備してある。絵図によれば、この付近には花壇があった。これは「金城温古録」にある、雨水を引き入れる「水道石樋」の遺構と認められる。現在も、ここにたまった雨水は、石樋を通じて堀へ注いでいる。暗渠に用いられている石材は、蓋石が花崗岩、側石が硬質砂岩である。