愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2023.09.02
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、三英傑が鷹狩りに訪れた吉良荘の「西尾城」です。
1221年、三河守護に任命された足利義氏による築城。
当初は吉良荘西条(さいじょう)に築城したことから西条城と呼ばれておりましたが、
1561年頃に酒井正親が城主となった頃に「西尾城」となったようです。
1585年には羽柴秀吉を警戒して徳川家康が大改修を行い、
1590年には江戸入りした徳川家康を警戒し、豊臣方の田中吉政が大手門などを増築。
往時は三重四階の天守が二之丸に建築されていたといわれており、
さらには「屏風折れの土塀」もあったという全国的にも珍しい城。
近年、二之丸天守の木造復元が計画されるなど大規模な整備が行われており、
1996年には鍮石(ちゅうじゃく)門と本丸丑寅櫓が、
2020年には二之丸丑寅櫓と屏風折れの土塀が復元されております。
その他に徳川家康が鷹狩りに出向いた史跡はこちら
・往時は二之丸御殿の前にあったという「鍮石(ちゅうじゃく)門」からスタート
・鍮石門を通過し左手に進むと、正面に復元された「本丸丑寅櫓」がお目見え
・道なりに進み、右手前方にある移築された「旧近衛邸」へ
ここから、西尾の抹茶を飲みながら本丸丑寅櫓を眺めることができます
・かつて櫓門があったこの道を進み、二之丸から「本丸」へ
・本丸に入ると、向かって右手側には「西尾神社」や「本丸井戸」があります
・左方向に進み、振り返って「本丸表門跡碑」と「城跡碑」を撮影
・本丸表門跡碑の横にある階段から「本丸丑寅櫓」へ、内部の見学も可能です
小牧・長久手の戦いに勝利した徳川家康でしたが、
羽柴秀吉はすぐさま織田信雄に狙いを定めこちらと講和。
戦の大義名分を失った徳川家康は兵を引かざるを得ない状況に陥り、
その後も外交戦では羽柴秀吉に対し後手に回る形となってしまいます。
羽柴秀吉はひとまず徳川家康とも講和し、その隙に反勢力を各個撃破。
対する徳川家康も着々と態勢を整える羽柴秀吉を警戒し、『家忠日記』によれば
2月 5日 総動員で西尾城の改修開始
9月26日 徳川家康が西尾城へ普請見舞に来る
11月22日 徳川家康が西尾城に来る(改修が終わったか確認)
1585年にこのようなスケジュールで西尾城の大改修を行ったようです。
どちらの陣営も再戦に向けて動き出しておりましたが、
この後天正地震が発生し、各地に大きな被害が出ると事態は急変。
戦どころではなくなった羽柴秀吉は、徳川家康を懐柔しようと方針を変更、
妹・朝日姫を離縁させてまで輿入れさせ、母・大政所を人質同然で送り込むなど、
なりふりかまわない姿勢で徳川家康にゆさぶりをかけることとなります。
・二之丸へ戻り、整備された「二之丸天守台」と「二之丸丑寅櫓」を見学
・外側へまわり、復元された珍しい「屏風折れの土塀」と天守台石垣もチェック
二之丸天守は珍しい構造だったようで、復元計画の進捗が気になるところです
・おまけで、桜の時季に撮影した「本丸丑寅櫓」の写真も一枚
・本丸などがある公園から足をのばし、往時の西尾城に思いを馳せる散歩へ
こちらは公園の北東に位置する伊文神社付近、「天王門」があった場所です
・こちらは、盛巌寺の西側にある見事な「外郭土塁」
土塁の隣にある道路は、かつて堀だった箇所だとか
・土塁から東へ進み、最後は総構え北側の玄関口だった「追羽門」があった場所へ
近くには岩瀬文庫もあるため、こちらに寄ってから戻るのがおススメです
石川数正の一挙手一投足に注目だった前回。
吹っ切れたように家康の天下取りを手伝うと言った翌日に出奔、
松重豊氏の心の内を悟らせない演技がお見事でした。
ちなみに、『どうする家康』内ではふれられておりませんでしたが、
出奔前には徳川家康から一文字頂き「石川康輝」と名乗っていたもよう。
そこからさらに改名、今度は羽柴秀吉から一文字頂き「石川吉輝」となったとか。
石川数正はなぜ出奔したか?
この謎に『どうする家康』ではどのような理由付けをするのでしょうか。
その描かれ方に注目したいと思います。
徳川家康が西尾を訪れた際宿泊し、その一字を賜ったという「康全寺」
西尾城
場所:愛知県西尾市錦城町231
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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