武将愛 SAMURAI HEART

100名城を巡る 「府内城」

2024.08.28

この連載は、公益財団法人日本城郭協会が定めた「日本100名城」の中で、
筆者が訪れたことがあるお城を紹介してゆくものである。
なお、城郭名は「日本100名城」の表記に合わせ記してゆく。

豊臣秀吉の側近、福原直高が築いた海城「府内城」

今回の史跡は、日本100名城の94番、大分県大分市の「府内城」。

1597年(慶長2年)、豊臣秀吉の家臣だった福原直高が築城開始。
当時、築城地は船荷の上げ下ろしをする場所で「荷落」と呼ばれていましたが、
福原直高は縁起担ぎで「荷揚」と改め、築城時は「荷揚城」という名称だったとか。
他にも、往時は海に面した「海城」であり、水上に浮かぶ美しい様と
見事な白土の塀を備えた姿から「白雉(はくち)城」とも呼ばれていました。

1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦い後に入城した竹中重利が荷揚城を大改修。
福原直高がつくった望楼型天守を層塔型天守に建て替え、城下町も整備、
当時の先端技術を駆使した大改修は、1608年(慶長13年)頃に終了したようです。

その後、1743年(寛保3年)に城下町で起こった火事が広がったことにより
天守を含む多くの建築物が焼失してしまい、以後天守は再建されず。
1966年(昭和41年)、大分空襲で焼失した大手門や櫓が再建されると、
1996年(平成8年)には廊下橋が木造復元されました。

 

「府内城」の見学ルート①

・かつては存在しなかった西側の入口、ここから西之丸跡へ
ちなみに、写真は2019年1月の早朝に訪れた際のものです

・西之丸跡へ入る前に、昭和に再建された「西之丸隅櫓」を外から見学
かつての櫓横側は板塀で、取り外して大砲を設置できる仕組みだったとか

・西側入口の北側には、二重櫓の石垣と廊下橋があります

・訪城時は整備中だった西之丸跡へ入り、「廊下橋」を中から見る図

・本丸跡方面へ進み、イルミネーション用に建てられた仮想天守下まで移動
残念ながら、この仮想天守を建てる企画は2020年で終了したそうです

・こちらがライトアップされた仮想天守、なかなか良い佇まいでした

・東之丸跡に再建された櫓たち、まずは北東隅の「二階櫓」

・こちらは南側の東隅と西隅に建てられた「平櫓」と「着到櫓」

・往時は四層の天守が建っていたという「天守台」の見事な石垣

・天守台の上から見る北側と西側の眺め、北側は「人質櫓」、
西側は天守台横の本丸櫓台と廊下橋が見られます

 

「府内城」を築城した福原直高の軌跡

府内城を築城した福原直高(長堯:ながたか、という呼び名もあり)は、
その出生地も生誕日も不明であり謎が多く残る存在。

いつの頃からか豊臣秀吉の側近となり主に文官として活躍し、
1590年(天正18年)伊達政宗が小田原へ遅参した際に豊臣秀吉に近侍、
1595年(文禄4年)豊臣秀次が切腹する前に検使を務めるなど、
豊臣政権下の重大事ではよく名前が挙がるくらいの地位にいたようです。

時期は不明ですが石田三成の妹を正室とし、後に豊臣姓を賜るなど
豊臣政権内での地位を確固たるものとしていた福原直高ですが、
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が亡くなると状況は一変。

前年に開始された「慶長の役」において、福原長高は石田三成らとともに
蜂須賀家政や黒田長政、加藤清正ら武断派の行動を厳しく評価し報告。
豊臣秀吉から叱責を受けた武断派の武将たちは、文治派を恨むようになり、
1599年(慶長4年)には石田三成を襲撃する計画を立てます。

結局、徳川家康が間に入り襲撃は中止されるものの石田三成は失脚し蟄居、
福原長高は最終的に所領を全て没収され、石田三成のいる佐和山城へ。
その後、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは石田三成と行動を共にし
大垣城を守備、西軍敗北後も抵抗しますが最後は降伏し大垣城を明け渡すことに。

大垣城を去った福原長高は出家し蟄居するも、武断派の恨みを買っていたことから
助命は許されず、切腹したとも刺客に襲われ亡くなったともいわれております。

石田三成が無念の最期を迎えた場所とは?

 

「府内城」の見学ルート②

・天守台から降り、先ほど上から見た「人質櫓」のある本丸北側へ
1861年に再建された「人質櫓」は、江戸時代から残る現存建築物です

・人質櫓から南方向に伸びる土塀の狭間から見た「廊下橋」

・天守台から公園内を縦断し南へ移動、西之丸跡南側へ向かいましょう
こちらには江戸時代の建築物である「宗門(しゅうもん)櫓」が

・南の出入口である復元された「大手門」を内側からと外側から
案内板によると、正式名称は「多聞櫓門(たもんやぐらもん)」

・修復中だった「宗門櫓」と「西之丸隅櫓」を外側から
「宗門櫓」は内側から見ると二階、外側から見ると一階というつくり

・「大手門」と「着到櫓」、おまけで仮想天守
「大手門」へ至るこの大手口、往時は廊下橋が架かっていたとか

・東へ移動し、東之丸跡南東の「平櫓」を外側から撮影
「平櫓」の右側にある石垣は、天守クラスの三階櫓が建っていた場所

・北東側の「人質櫓」から「東之丸二階櫓」までの美しいライン
写真右端の「人質櫓」左にある二箇所の隅部は櫓跡です

・帯曲輪をぐるっと周り、北之丸跡に建つ「松栄神社」へ
こちらには築城時に積まれた「慶長期の石垣」の一部があるので要チェック

・最後は、1996年に木造復元された「廊下橋」へ
古絵図を元に、大手門側にあった廊下橋を参考に再建したそうです

 


戦国時代好きな方は、城とともに南東方面の「戸次川古戦場跡」、
北西方面にある九州の関ヶ原ともいわれる「石垣原古戦場跡」が
車で30分くらいの位置にあるため、あわせて行くのが良いでしょう。


JR大分駅前の「大友宗麟像」

今回の史跡「府内城」

場所:大分県大分市荷揚町4

電車でのアクセス:JR「大分駅」下車後、北東方向へ徒歩約15分
車等でのアクセス:九州横断自動車道「大分IC」から北東方向へ約15分

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

九州地方の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ