江戸の警備組織 「江戸町奉行所」は東京の有楽町にあった!
2024.01.23
2016.07.29
東の比叡山として
東叡山寛永寺は1625年(寛永二年)慈眼大師天海大僧正によって創建されたお寺です。
天海僧正は、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の三代将軍の帰依を受け、
徳川幕府の安泰と万民の平安のために江戸城鬼門の位置に寛永寺を建立しました。
比叡山延暦寺が京都御所の鬼門にあることと同様に、
寛永寺も江戸城の鬼門封じとして建てられたのです。
寛永寺は最も栄えた時期には、現在の上野公園一帯が境内でした。
そのため、一般的に寛永寺と呼ばれている建物は「寛永寺本坊(根本中堂)」といい、
その他JR上野駅、鶯谷駅一帯に寛永寺霊園、輪王殿(旧本坊表門)、開山堂、
天海僧正毛髪塔、清水観音堂、大仏山、時鐘堂、五重塔、護国院(釈迦堂)、弁天堂があり、
その一帯を東叡山山内といいます。
徳川歴代将軍のご霊廟
(この霊廟は、残念ながら非公開)
徳川将軍家霊廟は増上寺にもあるので、徳川家の霊廟は2か所に分かれているということになります。
ご存知の通り、初代将軍徳川家康は没後、ご遺骸は久能山東照宮に、
そして自身は神格化され神様となり、日光で東照大権現として祀られています。
ですので、寛永寺にも増上寺にも霊廟はありません。
寛永寺には、四代将軍家綱、五代将軍綱吉、八代将軍吉宗、十代将軍家治、
十一代将軍家斉、十三代将軍家定の六名の将軍の霊廟があります。
残念ながらこちらの霊廟も、当時のものは増上寺の霊廟同様、
第二次大戦の空襲によりほとんどが焼失してしまいました。
徳川家の菩提寺は二つ
寛永寺は創建当初は、徳川家の祈祷寺でした。
天海僧正が江戸城の鬼門封じとして選んだお寺である寛永寺。
鬼門封じの鬼瓦(焼失前)
現在の鬼瓦
陰陽道、風水を駆使した天海僧正を厚く信頼し帰依していた三代将軍徳川家光は、
葬儀は寛永寺で行うようにしたことから、その後増上寺と寛永寺の両方が徳川家の菩提寺となったようです。
なるほど。霊廟が二か所に分かれている理由がわかりました。
けれど、初代将軍徳川家康が増上寺を菩提寺に、といったことに従うという判断は、
徳川家光にはなかったのでしょうか。
それとも、おじいちゃん(徳川家康)を守った天海僧正こそを大切にしなければ、
と思ったのでしょうか。
何といっても、天海僧正は宿敵真田信繁から徳川家康を守っていたのでしょうから。
なんとなく・・スピリチュアル
そんな寛永寺の霊廟にまつわるちょっと不思議なお話です。
実は、寛永寺本坊からJR上野駅方面に向かって五重塔、清水観音堂方面に向かいたかった私。
とても簡単に行けるはずなのに、どうやら、寛永寺本坊周辺をぐるりと廻っていた様子。
そして、ふと見ると道端に「徳川慶喜公墓所入り口」と書かれた看板が・・・。
エッ???
そこに行く予定はないのだけど・・。
導かれたように着いたのは谷中霊園。
なぜここに???
※「ちょっぴり怖い 寛永寺周辺のおはなし」に続きます。
「ちょっぴり怖い 徳川慶喜の墓所がある 谷中霊園のおはなし」の記事はこちら
東京都台東区上野桜木1-14-11
JR上野駅公園口徒歩5分
JR鶯谷駅徒歩5分
拝観料無料
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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