武将愛 SAMURAI HEART

100名城を巡る 金沢城

2024.04.28

この連載は、公益財団法人日本城郭協会が定めた「日本100名城」の中で、
筆者が訪れたことがあるお城を紹介してゆくものである。
なお、城郭名は「日本100名城」の表記に合わせ記してゆく。

加賀百万石の名城「金沢城」

今回の史跡は、日本100名城の35番、石川県金沢市の「金沢城」。

1546年(天文15年)加賀一向一揆の本拠地として建設されたのがはじまり。
尾山へ建てられたことから、当時は「尾山御坊(おやまごぼう)」と呼ばれ、
本願寺門徒はこの地で朝倉氏や上杉氏、織田氏と対峙しておりました。

1580年(天正8年)織田信長の命により柴田勝家の甥である佐久間盛政が
尾山御坊を攻め落とし築城、この時尾山の名称を改め「金沢城」としたそうです。

1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い後に前田利家が入城し、
1587年(天正15年)に高山右近を招き金沢城の大改修を開始。
1592年(文禄元年)には前田利家が嫡男である前田利長に石垣普請を命じ、
二の丸や三の丸、百閒堀などの主な整備もこの時期に終了したようです。

1602年(慶長7年)に天守が落雷により焼失、三階櫓を建築するものの、
1631年(寛永8年)に起こった「寛永の大火」で本丸や三階櫓は焼失。
この時、前田利長から家督を継いでいた前田利常(前田利長の弟)は、
防火のため辰巳用水を整備、二の丸に拠点を移すなどの対策を施しました。

1996年(平成8年)に金沢城公園として整備開始。
以後、菱櫓・河北門・いもり堀などの復元工事が続々と行われ、
2020年(令和2年)には鼠多門、鼠多門橋が復元されました。

 

「金沢城」の見学ルート①

・早朝城巡り、2020年に木造復元された「鼠多門」と「鼠多門橋」から開始

・「鼠多門」に用いられた刻印入り石垣と「海鼠(なまこ)壁」

・「玉泉院丸庭園」を見渡し、付近にある案内板をチェック

・庭園横から、明治時代以降につくられた通路である「いもり坂」へ
 坂の途中右手には、「薪(たきぎ)の丸」石垣があります

・本丸と二の丸間を隔てる「空堀」、真ん中らへんに架かるのは「極楽橋」
 2024年4月現在、地震の影響により封鎖されております

・「二の丸」から「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」を見た図

・きれいに積まれた石垣が美しい「橋爪門」から三の丸へ

・ふりかえり、「橋爪門」と「橋爪門続櫓」を一枚

・二の丸を守るためつくられた「内堀」と「内堀石垣」
 散り始めた桜の花びらが水面に浮いておりました

 

徳川家康が謀った、前田利常の「金沢城」帰還

1599年(慶長4年)、前田利家が病気で帰らぬ人に。
前田利家は、幼少の豊臣秀頼を支える「五大老」の一人でしたが、
跡を継いだ前田利長もこの地位を引き継ぎます。

しかし、五大老の一員としてにらみを利かせていた前田利家が不在となり、
徳川家康や石田三成を恨む諸将たちは徐々に制御不能状態に。
石田三成討つべし!と息巻く加藤清正や福島正則などの武断派七将は
ついに襲撃を実行、この責任を取る形で石田三成は佐和山へ蟄居。

反徳川家康の先頭に立っていた石田三成がいなくなったことで、
今度は前田氏が反徳川の一角だという疑いがかけられます。
このような重大な時期に、前田利長は徳川家康の勧めで金沢へ帰国。

前田利家は遺言で「3年は上方(大坂)を離れるな」と残したようですが、
これを破るかたちで帰国した前田利長に待っていたのは、
「前田氏、謀反の疑いあり」で加賀征伐を計画中という仰天の報せでした。

徹底抗戦か、それとも弁明し実質上の服従か。
悩んだ末に前田利長が下した決断は、徳川家康と戦わず和解すること。
母である芳春院(ほうしゅんいん、まつ)が江戸へ向かい、
人質となることで和解が成立、以後徳川家康の味方として立ち回ります。

1600年(慶長)関ヶ原の戦い後には、弟の領国だった能登や南加賀が
徳川家康から与えられ、前田利長は加賀とあわせて約120万石の大大名に。
世に言う「加賀百万石」がここで誕生したかたちですが、
これにより徳川家と前田家は、完全な主従関係になったといえるでしょう。

 

「金沢城」の見学ルート②

・金沢城を代表するこの建物群、右から「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」

・菱形につくられている「菱櫓」側から撮影
 早朝とはいえ、桜並木のあるこのあたりは賑わっておりました

・三の丸を東へ進み、「石川門」方面へ
 桝形の角を見れば、積み方の異なる石垣が一度に楽しめます

・石川門を渡り、「石川門」と「石川櫓」を桜とともに撮影
 現在道路になっている「百閒堀」まわりにも桜がたくさん

・百閒堀北側にある、金兜の「前田利家像」もお忘れなく

・石川門から三の丸へ戻り、北側の出入口である「河北門」へ
 一枚目が三の丸側からの「二の門」、二枚目が「一の門」です

・河北門の北に広がる新丸広場を進むと、北側にあるのが「大手門跡」
 現地説明によれば、高山右近のアドバイスでここを大手にしたそうな

・二の丸まで戻って極楽橋を渡り、1858年再建の「三十間長屋」へ
 「海鼠壁」と切石積みの「石垣」が素晴らしい

・こちらは二の丸西側にある「数寄屋敷跡」あたりの刻印入り石垣
 すぐ側には、陸軍の施設だった「旧第六旅団司令部庁舎」があります

・玉泉院丸のある南方面へ進み、珍しい「色紙短冊積石垣」を見学
 金沢城内には様々な石垣があるため、いくら時間があっても足りない…

・いもり坂から東へ進み、こちらも必見の「申酉櫓下石垣」下へ
 右側が慶長期、左側が寛永期に継ぎ足された石垣です

・最後は、本丸南側の高石垣を見に「鯉喉(りこう)櫓台」方面に移動
 手前の「いもり堀」「鯉喉櫓台」ともに2010年に復元されました

・写真中央の一番上が本丸辰巳櫓跡、右側には百閒堀跡の道路があります

 


 

今回は早朝開園の時間帯を狙い、5時頃から散歩しに行きました。
桜の時季は兼六園が無料開放しており、土日は大変込み合いますが、
早朝なら比較的ゆったり見学できるので朝駆けをおススメします。


日本三名園のひとつ、金沢城に隣接する「兼六園」

今回の史跡「金沢城」

金沢城公園
場所:石川県金沢市丸の内1−1

電車でのアクセス:JR「金沢駅」から南東方向へ徒歩約30分
車等でのアクセス:北陸自動車道「金沢西IC」から東方向へ約30分

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

石川県の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ