信長・秀吉・家康と三英傑にゆかりのある「大徳寺」をご紹介
2024.07.30
2019.04.03
二条城が落成したのは1603年3月
その前年1602年5月に天守と御殿の造営が始まりました。
家康はなぜ、京都に二条城を建てたのでしょうか。
信長のようにはなりたくない?
どうやら家康は、本能寺の変で無念となった織田信長のようにはなりたくないと考えていたようです。
それはそうですよね。
信頼していた家臣によって企てられたわけですから。
けれど、当時は家臣といえど絶対に信頼するということはできないのが実情でした。
そんな世の中だったのです。
家康は、任官のために京都で宿泊するときに安心できる「城」を築こうと考えました。
その「城」こそが二条城です。
家康は1603年、武士としての最高権威である征夷大将軍に任命されました。
家康天下の始まりです。
その祝賀会をこの二条城で行ったのです。
当然、これからはすべては家康の支配下と思われたでしょうが、当の家康自身は安心してはいませんでした。
それは、豊臣家嫡子である秀頼が健在だったからです。
家康は、自分の想い描く秀頼像のまま、どのような力も持つはずもないとの思いで、秀頼を二条城に招待しました。
家康、秀頼の成長ぶりにビックリ仰天!
家康はその二条城で豊臣秀頼と久しぶりの会見をしました。
豊臣秀吉の三男であり、側室茶々の第二子。
家康には秀吉と茶々が溺愛していた軟弱な息子とイメージがあったようです。
しかし、接見した秀頼は思いのほか立派な青年になっていて脅威すら感じたというのです。
確かに、秀頼は当時17歳、そして家康は69歳。
家康はすっかりおじいちゃん。
いくら自分に権力があっても、自分を脅かす存在になることがあると思ったのでしょう。
家康は、この会見で秀頼を滅ぼすことを決意したといわれています。
それがあの有名な大坂冬の陣、夏の陣です。
二条城はこの時、家康の本陣となった場所です。
1614年、豊臣家臣大名対徳川家の戦いが勃発しました。
秀頼が不甲斐なく頼りない人物になっていたとしたら、大坂冬の陣、夏の陣は起こらなかったのでしょうか。
豊臣家と徳川家の戦いは、あのような悲しい結末で終わることはなかったのでしょうか。
家康に嫉妬心や恐怖心を抱かせることになった秀頼。
立派に育てたからこその悲劇だったとしたら、なんだかとても切ないです。
京都府京都市中京区二条城町541
アクセス
JR京都駅 地下鉄烏丸線 烏丸御池駅→地下鉄東西線「二条城前」下車
市バス9、50、101系統「二条城前」下車
入場料:一般600円
中・高校生350円
小学生200円
開城:8:45~17:00 (見学時間は8:45~16:00)
休館日:年末年始(12月26日~1月4日)、1,7,8,12月の毎週火曜日
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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