愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2020.08.28
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
姉川の合戦後、三好三人衆が摂津へ再襲来。野田城らを奪われた信長はすぐ奪還に向かいますが、
これに荒木村重や石山本願寺の顕如が呼応し信長と敵対関係に。
さらには浅井・朝倉氏や比叡山延暦寺も参戦、顕如の檄にこたえ長島で一向一揆が起こったりと、
信長の周りは敵だらけという事態になってしまいます。
各地での反織田勢力戦で、小木江城にいた弟・信興や森可成を失うなどピンチに陥った信長。
これはたまらんと、顕如を皮切りに浅井・朝倉氏ら敵対勢力と一旦和睦し立て直しを図ります。
小木江城跡(富岡神社)
所在地:愛知県愛西市森川町村仲
年が明けて1571年、佐和山城を手に入れ浅井氏への牽制を済ました後、信長は長島へ出陣。
5万もの兵を投入しますが、一揆勢に返り討ちにあい撤退を余儀なくされます。
苦杯を喫したのもつかの間、松永久秀が裏切り三好氏と組んで近江中山道を封鎖したとの凶報が。
中山道は京都へつながる重要な道。信長は速攻を仕掛け奪還し、その足で比叡山へと向かいます。
そして延暦寺側の態度、僧侶の有り様などに怒っていた信長が行ったのが、前代未聞の焼き討ち。
鬱憤を晴らした形の信長は、翌年には再び小谷城へ。支城を落とし浅井氏を追い詰めてゆきます。
しかし、ここで足利義昭に呼応し武田信玄が参戦。小谷城攻めの手を緩めざるを得ない状況へ。
武田軍は岩村城を落とし、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を一蹴、破竹の勢いで西上してゆきます。
佐和山城跡
所在地:滋賀県彦根市古沢町
岩村城跡
所在地:岐阜県恵那市岩村町城山
1573年、信長包囲網完成と見た足利義昭は自ら蜂起しますが、あえなく敗北。追放の憂れき目に。
実は、この時点で武田信玄は病に倒れており、すでに包囲網には綻びが見えはじめていました。
元号が「天正」になったこの時期、信長は小谷城を包囲しつつ、刀根坂で朝倉軍を撃破。
勢いに乗った織田軍は一乗谷まで一気に攻め込み、名門・朝倉氏を滅亡に追い込みます。
信長は一乗谷から戻ると、すぐに小谷城へ。総攻撃を仕掛け、ついに浅井氏討伐を果たします。
浅井長政はお市と子たちを羽柴隊に預け自刃、嫡男も磔刑となり浅井氏も三代で滅亡することに。
一乗谷朝倉氏遺跡
所在地:福井県福井市城戸ノ内町
小谷城跡
所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部
朝倉氏・浅井氏を滅ぼした信長は、間を置かずまたもや長島へ出陣。前回の仕返しを狙います。
しかし船の調達がうまくいかず、長島砦を前に撤退。その最中に一向一揆勢に襲われ散々な目に。
浅井氏・朝倉氏を滅ぼしましたが、武田勝頼が家督を継いだ武田氏、石山本願寺の顕如など、
反信長勢力はまだ多くが健在。信長の正念場は、しばらく続きます。
長島城跡(蓮生寺:長島城移築門)
所在地:三重県桑名市長島町又木66
比叡山焼き討ち後、信長が明智光秀に命じ築城させたのが坂本城。
反信長勢力打倒の拠点となった、重要なお城だったと言えるでしょう。
笛の音に誘われた武田信玄が狙撃にあった…という伝説があるのが野田城。
信玄の死を知っていたら、足利義昭も蜂起しなかったんじゃないかと思います。
坂本城跡(坂本城址公園)
所在地:滋賀県大津市下阪本3丁目1
野田城跡
所在地:愛知県新城市豊島本城
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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