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戦況を見る目が確か!美濃高須藩初代藩主の徳永寿昌の墓碑

2018.05.09

海津市にある徳永寿昌の墓碑のある広徳寺に行ってきました。
徳永寿昌という武将の名前は聞き慣れないかもしれませんが、賤ヶ岳の戦いでは豊臣方につき、関ケ原の戦いでは東軍につき武功を上げるなど、勝ち馬に乗って家を守ってきた武将です。

もともとは柴田勝家の甥っ子で、勝家の養子である柴田勝豊の家臣で、豊臣家の家臣でした。
ということは、途中で敵方に味方して、負ける方では戦っていないということになりますね。

初代高須藩主を経て、途中で松平家が藩主になります。
実は松平家は初代の藩主ではなかったんですね。

初代高須藩主になるまで

徳永寿昌は出自などは明確になっていませんが、柴田勝豊の家臣でした。
賤ヶ岳の戦いの時、早々に長浜城を豊臣秀吉に明け渡して豊臣方に降伏してしまう柴田勝豊。
勝豊が死去し、徳永寿昌は豊臣家の家臣として務めることになります。

豊臣秀次が治めていた近江能登川の用水を整備したり、文禄・慶長の役では出兵している武将たちに日本へ戻ってくるよう伝える使者の役目をしたそうです。

その後は徳川家康率いる東軍に与します。
西軍の高須城主の高木盛兼を降伏させ、合戦終了後は近隣の駒野城に篭城していた池田秀氏を降伏させ、その功績として高須で2万石を加増を受け、初代高須藩主となりました。

豊臣時代でも用水の整備をしていることから、土木関連の整備は得意だったのでしょうか。
現在の高須町の町割りの基礎は徳永寿昌が行ったものが、ほとんど残っているそうです。

江戸時代初期の町割りが今でも残っているのはすごいですね。
しかし、息子の代になると、大坂城石垣普請の進みが遅れている事を理由に改易されてしまうことに。
なぜか縁もゆかりもない、庄内藩の酒井家預かりとなりますが、3代目で許され旗本に復帰しています。

その後の高須は、尾張徳川家のお控え・松平家が治めることとなります。

海津市の広徳寺には、その徳永寿昌の墓碑があります。


付近には、関ケ原合戦の看板があり説明がなされています。

広徳寺へのアクセス

住所:岐阜県海津市海津町高須938
電話:0584-53-2075

<サイト>
海津市のサイト

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北村美桂

岐阜県出身。歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営と、Google Analyticsを活用したライティングを行うWebライター。現在は参加者全員が新聞紙カブトをかぶる歴史イベント「名古屋歴史ナイト」を3ヶ月に1回開催中。会の情報はこちらでも更新中。

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