愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2020.09.25
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
1574年、武田軍が東美濃へ進軍。苗木城・妻木城らを落とし、さらに明知城へ迫ります。
上が苗木城、下が妻木城です。
信長は神篦城・小里城(写真)に諸将を送り込み、明知城の救援を図るも失敗。
勝頼率いる武田軍は、後に三河の高天神城も落とし手がつけられない状態となります。
敗戦続きに鬱憤の溜まっていた信長ですが、三回目の遠征でついに長島の一向一揆を鎮圧。
今までの仕返しとばかりに、信長は一向一揆衆に対し容赦ない仕打ちをしたと言われています。
苗木城跡
所在地:岐阜県中津川市苗木
妻木城跡
所在地:岐阜県土岐市妻木町
小里城跡
所在地:岐阜県瑞浪市稲津町2718番地
明けて1575年、信長の次なる標的は三好氏と石山本願寺。高屋城の戦いに勝利し追い詰めるも、
武田軍が長篠城へ迫るとの報を聞き、一旦和睦。急ぎ東へと向かいます。
武田軍に包囲され落城寸前だった長篠城ですが、鳥居強右衛門が脱出に成功し信長のもとへ。
捕縛されながらも援軍が来ることを伝えた強右衛門の活躍もあり、武田軍の猛攻を耐え抜きます。
そして、織田・徳川連合軍と武田軍は、長篠城の西方にある設楽原で対峙。
兵数で勝る信長は、まず武田軍後方の鳶ヶ巣山を攻略。挟み撃ちの構図を作り優位に立ちます。
まさに死闘となった、「鉄砲三段撃ちvs最強武田騎馬軍」という伝説が語られるこの決戦。
織田・徳川連合軍の勝利で幕を閉じ、武田軍は重臣の殆どが戦死するなど大打撃を受けました。
長篠城跡
所在地:愛知県新城市長篠市場22ー1
織田信長戦地本陣跡(茶臼山)
所在地:愛知県新城市牛倉城山
設楽原決戦場(復元馬防柵)
所在地:愛知県新城市大宮清水1−9
武田軍を退けて一息ついた信長。間を置かず嫡男・信忠に武田方からの岩村城奪還を命じます。
そして、信長自身は越前の一向一揆鎮圧へ向かい、内部分裂の隙をつき一気に殲滅。
信長は柴田勝家に北ノ庄城を築城させ、府中三人衆とともに越前の地を任せました。
こちらは、府中三人衆の一人・佐々成政築城と言われている小丸城。
この年、権大納言・右近衛大将に任ぜられ、足利将軍と同等以上の位を得た信長。
事実上の「天下人」となるも、この時点でまだ周りは敵だらけ、といった状態です。
北ノ庄城跡
所在地:福井県福井市中央1丁目21−19
小丸城跡
所在地:福井県越前市五分市町28
自らの命を惜しまず、主君・奥平氏の籠もる長篠城へ「援軍は来る」と伝え散った
鳥居強右衛門勝商(かつあき)。その行動には、信長も感銘を受けたそうな。
設楽原古戦場には、戦いで散った武田軍重臣たちのお墓がたくさんあります。
ここでご紹介するのは、上から順に山県昌景・小幡信貞・内藤昌豊のお墓。
甘泉寺(鳥居強右衛門勝商墓)
所在地:愛知県新城市作手鴨ヶ谷門前25
設楽原古戦場
所在地:愛知県新城市竹広498
愛知県新城市竹広86
愛知県新城市八束穂1041
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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