武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2023年2月19日記事のため内容が古い可能性があります。

どこにいた家康 Vol.07 本證寺

2023.02.19

この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。

『どうする家康』ちょっとふりかえり

第七回は、冒頭で「元康」から「家康」へ改名し今川家と決別。
良い「家(=国)」をつくろうと決意して名を決め、ご満悦の徳川家康でした。
しかし、慢心していた徳川家康は一向宗を侮り、特権を侵してしまいます。
いよいよ、徳川家康三大危機の一つである「三河一向一揆」にむけて動き出しました。

徳川家康、三大危機の舞台の一つ「本證寺」

今回の史跡は、徳川家康を危機に追いやった三河一向宗の本拠地である本證寺。
境内は水堀で囲まれており、土塁や隅櫓に似た鼓楼を備えていることから、
城郭寺院もしくは城郭伽藍と称されることもあります。
お寺でもありお城でもある、ということから本證寺城と呼ばれることも。

 

・本證寺 入口にあたる「山門」を外側からと内側から

・本證寺 水堀とともに見る「鼓楼」、鉄板のアングルと言えるでしょう

ちなみに、上の写真は昨年9月、下の写真は今年1月撮影のものです

・本證寺 修復を終えた、江戸時代以降に積まれた「石垣」

・本證寺 1760年建立の「鼓楼」を境内側から、やはり隅櫓っぽい

・本證寺 1663年に再建された「本堂」を境内から見る

「本堂」外側のつくりと、境内にあるわかりやすい案内板

 

「本證寺」らと徳川家康との対立はなぜ起こった?

三河統一を目指し動き始めた徳川家康でしたが、
待っていたのは本證寺・勝鬘寺・上宮寺の三河三ヶ寺との厳しい戦いでした。

対立した原因は、「守護使不入(=領主の介入や立ち入りを拒否できる)」
といわれる特権を与えられていた三河三ヶ寺に対し、
・徳川家康の家臣がこれを破り、上宮寺で兵糧を徴収したため(『松平記』)
・西尾城主・酒井氏がこれを破り、本證寺内で犯罪者を捕縛したため(『三河物語』)
・徳川家康がこの特権自体を取り上げようとしたため など、諸説あります。
いずれにせよ、この対立により徳川家康は大きな危機に直面することになりました。

 

・本證寺 本堂の北側にある「裏門」と「庫裏(くり)」

・本證寺 南側と西側の「内堀」

・本證寺 「外堀」はほぼ埋まっておりますが、東側に一部が現存しております

こちらは西側の「外堀」跡付近から見た本證寺方面

・本證寺 庫裏の北側に残る、素晴らしい「土塁」と「内堀」跡

「本證寺」が戦う城であったことがわかる土塁跡を紹介した記事はこちら



 

本證寺で決起する空誓と一向宗信徒たち、という場面で第七回は終わりましたが、
この時点では、まだ事の重大さがわかっていなかったと思われる徳川家康。
まさか、あんな人やこんな人まで敵にまわるなど夢にも思ってないことでしょう。
次回は、後悔し苦悩する徳川家康の苦しい姿を見ることとなりそうです。

今回の史跡「本證寺」

本證寺
場所:愛知県安城市野寺町野寺26

武将カテゴリ

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

愛知県の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

徳川家康の記事

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ