武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2017年8月9日記事のため内容が古い可能性があります。

土塁跡から戦う城であったことがわかる「本證寺」

2017.08.09

三河地方のお城といえば、徳川家康が生まれた場所として有名な岡崎城を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

実はこの場所は三河一向一揆の拠点となったお寺で、徳川家康が制圧に苦労した場所でもあります。
また三河と尾張の最前線のお城として、織田信長の兄が城代として入っていたこともあるのです。

今からは想像できないほど立派な土塁

本證寺は戦国時代の三河一向一揆の拠点として、非常に重要な場所でした。
ウィキペディアによると、以下のように書いてありました。

上宮寺、勝鬘寺と並んで三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代には三河一向一揆の拠点となった。こうした経緯から、鼓楼や土塁を備え、水濠に囲まれた城郭寺院(城郭伽藍)となっている。

お寺でありながら、城でもあった「城郭寺院」と分類されているのですね。
実際に桶狭間の戦い以降、三河を制圧しようとしていた徳川家康は、三河一向一揆との戦いで大変な苦労をします。
その時の重要拠点がこの安祥城でした。

安城市のホームページによると、以下のような解説がなされています。

安城町に所在し、碧海台地東縁部の半島状にのびる台地上に位置しています。台地の南・東・西側は湿田となっていて、天然の要害となっていました。築城・廃絶時期は明らかではありませんが、戦国時代には松平氏の居城となり、城を巡って織田氏との間で数度の攻防が繰り広げられたことは有名です。
清康の代になって本拠地が岡崎に移され、江戸時代には畑となっていましたが、1792(寛政4)年に了雲院が移転してきて現在に至っています。1988(昭和63)年以来数度の調査が行われた結果、多くの地点で堀が確認され、一部の堀は堀の中を区切る畦状の遺構が検出されています。また、本丸に当たる現了雲院境内地の調査では、江戸時代の畑状遺構のさらに下層に戦国時代の遺構が残っており、現地表面から1m近く盛り土がれさていることが確認されました。

発掘調査の結果、多くの堀が確認されていて、堀の中を区切る畦状の遺構が出てきているとのこと。
読売新聞の天下人の城「足元揺るがす一向一揆と本証寺<家康編6>」では、

 安城市教委の発掘調査では、今は埋没しているが、深さが約6メートル(推定)もあるV字形の外堀跡なども見つかっている。これらは、三河一向一揆の際に寺が設けたものとされている。

と、書いてあります。
6メートルの外堀は相当な大きさですね。

三河一向一揆で徳川家康がいかに手を焼いたかが見えてくる情報です。

現在は一部にこのような土塁がありますが、かなり立派なものです。
拠点となる寺だけあって、臨戦態勢も相当なものだったのでしょうね。

本證寺へのアクセス

住所安城市野寺町野寺26他

<地下鉄>
・名鉄南安城駅から徒歩12分

<サイト>
安祥城址
本証寺境内

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北村美桂

岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。

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