武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2016年10月28日記事のため内容が古い可能性があります。

大阪城公園をめぐる

2016.10.28

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はじめまして、ライターのyuriです。

豊臣秀吉の城として知られ、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した大阪城をご紹介します。

大阪城一帯は広大な公園になっていて、じっくり見て回ると、茶店などでランチをしながら1日遊べそうですよ。

 

豊臣秀吉の大阪城の遺構は徳川氏によって地中に埋められてしまい、今、現存している遺構は徳川時代に再建されたものだそうです。天守閣は昭和6年に再建され、徳川時代の土台の上に、外観は秀吉のお城を模した城が立っていますが、内部は鉄筋コンクリートの博物館になっています。

 

それでは、大阪城正門の「大手門」からご案内します。

行き方は色々ありますが、京阪の「天満橋駅」から「西外堀」に来ると、お堀の向こうに「大阪ビジネスパーク」(OBP)の超高層ビル群、手前には「乾櫓」(いぬいやぐら)が見えてきます。

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「大阪城公園」の地図を見てみましょう。広大な様子が分かりますね。(地図上の現在地は違います)

緑色の地区・・・二の丸

オレンジ色の地区・・・西の丸庭園

茶色の地区・・・本丸

黄土色の地区・・・山里丸

ピンク色の地区・・・三の丸

黄緑色の地区・・・公園

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左下の「大手門」から緑色の「二の丸」へ入ります。

次の写真は、左から重要文化財の「千貫櫓」(せんがんやぐら)、「多聞櫓」(たもんやぐら)、「大手門」(1628年創建)です。

 

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大手口の土橋を渡って大手門をくぐると、「大手口桝形」と呼ばれる場所に入ります。

次の建物が「多聞櫓」で、左側が「櫓門」のある「渡櫓」(わたりやぐら)、右側が直角に繋がる「続櫓」(つづきやぐら)です。

 

櫓とは、物見や射撃による防御のために石垣の上に作られた楼のことで、日常的には武器や米、塩などの倉庫に使われていました。「多聞櫓」とは、土塁や石垣の上に築いた長屋状の櫓で、大和国の武将が多聞城で初めてこのような櫓を築いたことから、そう呼ばれるようになったそうです。

 

江戸時代には本丸に石垣の突き出た隅に造られた隅櫓が11棟、二の丸には櫓が12棟もあったそうですが、現存している櫓は、乾櫓、千貫櫓、多聞櫓、一番櫓、六番櫓だけになっています。

 

大阪城には巨石が多く見られますが、続櫓の下の巨石は、右が「大手見付石」、左が「大手二番石」と呼ばれ、元は1枚だった石を2つに割ったことが最近分かったそうです。

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次回は、多聞櫓の内部から隣の千貫櫓、西の丸庭園の焔硝蔵、迎賓館などをご紹介します。

 

大阪城大手門までのアクセス

 

★京阪電車

「天満橋駅」から徒歩約10分

 

★地下鉄

*谷町線 「天満橋駅」「谷町四丁目駅」から徒歩約10分

*中央線 「谷町四丁目駅」から徒歩約10分

 

大手門から天守閣まではさらに徒歩8分です。

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