愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2017.07.05
名古屋城といえば1610年、徳川家康9男で初代尾張藩主の義直の城を築くため、天下普請で集められた20大名によって作られたお城という歴史のほうが有名です。
しかし、実は名古屋城になる前の「那古野城」の歴史はそれよりも古く、大永年間(1521年~28年)に今川氏親によって築かれています。
今川と言えば駿府ではないの?という感じになりますよね。
ここでは今川氏親時代と織田信秀時代の「那古野城」の歴史について紹介いたします。
「那古野城」は大永年間(1521年~28年)に、今川氏親の尾張進出の拠点として、熱田台地(名古屋台地)の西北端に築城した「柳ノ丸」を起源として建てられたもの。今川氏豊がこちらの城代となります。
当時尾張統一を目指して奮闘していた織田信秀の策略で、「那古野城」は乗っ取られることに。
そして息子の信長の居城として使うことになりました。
これが「那古野城」の最初の頃の話で、現在の名古屋城の二の丸あたりに那古野城跡の看板が建っています。
しかしこの当時の愛知県はものすごく混沌としていました。
尾張は織田信秀、三河は松平広忠と、織田信長と徳川家康父の時代は非常に戦々恐々としていた時代です。
まず松平家は、、天文4年(1535年)の森山崩れといわれる、松平清康が謎の死を遂げたことで動揺が走ります。
その後、息子の松平広忠が、今川義元の後援を受けて岡崎城に戻り家督を相続することになり、今川氏に家康を人質に入れることになっていました。
ここで有名なのは、徳川家康誘拐事件。
駿府へ送られる途中で田原の戸田氏により誘拐(すでに織田家に屈服していたためなど諸説あり)されてしまいます。
今川家はそれを奪い返すべく、太原雪斎らを中心に小豆坂の戦いで安城城の城代に織田信広を生け捕りにし、人質交換と言うかたちで家康を無事に取り戻すことに成功します。これが天文11年(1542年)と17年(1548年)に起きた「小豆坂の戦い」です。
ところで、尾張の織田家が安城城に城代を置いていたか気になりませんか?
実は松平広忠が岡崎城に再入城した時、三河の諸豪族が相次いで離反したり、一族からも謀反が起こり弱体化しているタイミングでした。
そこで天文9年(1540年)に松平氏が弱体化したこの機に織田信秀が安祥城を攻撃し落城させて、息子の織田信広を住まわせていたということになります。
織田家は三河の方まで進軍していたことに驚きますね。
一説には1560年の「桶狭間の戦い」は今川家の上洛ではなく、尾張侵略をかけた戦いであるというものもあります。
結局小豆坂の戦いでの大敗により、織田信秀の三河進軍は撤退となりました。
こうして考えると相当長い時間、尾張・三河は混乱していたことになりますね。
その激動の時代を感じられる史跡として「那古野城」跡があります。
その他、森山崩れの部隊「清洲城の支城・守山城」や、織田家の三河進軍の拠点安城城、織田信秀の居城の勝幡城、古渡城なども合わせて見てみると面白いと思います。
そんな時代を経て、徳川の世になってからの名古屋城を味わうと、名古屋城と戦国時代を深く味わうことができるかもしれません。
■名古屋駅からの行き方
・名古屋市営バス・メーグル利用編(所要時間 20分以内)
・地下鉄利用編(所要時間 20分以内)
<地下鉄>
名城線 「市役所」 下車 7番出口より徒歩 5分
鶴舞線 「浅間町」 下車 1番出口より徒歩12分
<市バス>
栄13号系統(栄~安井町西) 「名古屋城正門前」
なごや観光ルートバス「メーグル」
基幹2号系統 「市役所」 下車 徒歩5分
<名鉄>
瀬戸線 「東大手」 下車 徒歩15分
名古屋高速1号楠線 「黒川」 出口から南へ8分
名古屋高速都心環状線 「丸の内」 出口から北へ5分
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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