愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2018.07.24
「知立古城」の看板が立っている公園があります。この知立古城、これといった史跡が残っているわけではありませんが、調べてみると家康はもちろん在原業平、結城秀康などそうそうたる名前が出てくる立派な家系のようです。
この知立古城は、看板に寄ると「知立古城は桶狭間の戦いで落城し、江戸時代の初めには将軍の休泊用の御殿となっていた」と書かれています。
それ以上詳しいことは書かれていませんでしたが、元は永見氏という知立神社の神官のいた館と言われています。
この永見氏、中世に永見義高の没後に跡を継いだのが、在原業平の子孫である在原師喬の三男・貞俊でした。
貞俊のお父さんである在原師喬は、13世紀末から三河国吉良荘の領主・吉良貞義に仕えていたという背景があるそう。
その後、戦国時代に入りだんだんと将軍家の力が弱まってくると、このあたりを治めていた水野氏に仕えるようになります。
29代神主の貞英は、刈谷城主の水野忠政(家康の母・於大の父)の娘を正室として迎え、子供をもうけます。その一人が家康の側室・お万の方で次男の結城秀康のお母さんです。
もともとお万の方は家康の正室・築山殿の奥女中でしたがお手つきになり、結城秀康を生みます。
結城秀康は双子だったのですが、昔は双子は忌み嫌われ、次男は永見家に送られ知立神社の神主となりました。
ちょっと時代は戻りますが桶狭間の戦いの時、知立あたりは今川方に支配されていましたが、織田信長に今川義元が討ち取られてしまいます。当時、今川方の下にあった永見氏の住まいであった知立城も落城となってしました。その後、刈谷城主水野忠重がこの土地に屋敷を建てます。
江戸時代に入ると、東海道の日本橋から数えて39番目の宿場町、池鯉鮒宿として整備され、宿場町として発展していきます。
東海道を使って将軍が上洛することもあるので、宿泊施設として知立古城後に御殿が整備されていきます。
その石碑も立っていました。
今でこそ牧歌的な風景の中に石碑がぽつんとあるだけですが、時代の勢力を読み生き延びようとしてきた歴史が残されていることがわりました。
住所:知立市西町西10(西町児童遊園内)
電話:0566-83-1133
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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