愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2019.04.24
教如は、石山合戦で織田信長と戦った本願寺の顕如の長男です。
教如という名前はピンとこなくても、顕如の長男といえばわかる方も多いはずです。
あとは本願寺がなぜ西と東に別れたかという話になると、ピンとくる方もいると思います。
その教如上人の命を助けた功績のある、津島市の成信坊と岐阜県安八町にある光顕寺をご紹介いたします。
石山合戦までは本願寺はひとつでしたが、ことの起こりは石山合戦。
織田信長と約10年に渡り闘争をしていました。
その時教団内では穏健派と、石山合戦時に籠城した強行派の大きく2つの派閥ができます。
長男の教如は強硬派、弟は穏健派と言われています。
文禄元年(1592)顕如の死後は、長男の教如が本願寺を継承することになりました。
しかし教如は、側近には強硬派ばかりを重用したことで教団内でも対立が起こります。
そして豊臣秀吉から、教如の問題点が指摘され、10年後に顕如の三男の准如に法主を譲るように提案されます。
それを聞いた強硬派の坊官たちが、秀吉に異議を申し立てをした結果、「今すぐ退隠せよ」と怒りを買うことになってしまいました。
本願寺は三男の准如が継ぎます。
教如たちは千利休と距離を縮めましたが、千利休死後は、石田三成らに狙われる存在となってしまいます。
その後は家康と距離を縮めていたようで、小山まで会いに行っていたことも。
そして関ケ原合戦後、寺院を寄進され教如が独立し「東本願寺」を、准如が「西本願寺」としてそれぞれ分かれることになったのです。
東本願寺の開基の教如上人にゆかりがあるお寺は、津島市の成信坊。
教如が三河から帰西する途中に、伊勢長島で織田の兵に襲われます。その時身代わりとなったのが、このお寺の住職でした。
その功績を買われて、東本願寺から「津島御坊」と名乗っても良いと許可がでたそうです。
立派な鬼瓦があったりと、非常に立派なお寺でした。
ひき臼を敷き詰めた参道が特徴です。
所変わって岐阜県安八町の光顕寺。こちらは石田三成の襲撃で死を覚悟した教如上人の辞世の句があるお寺です。
辞世の句は須弥壇に短刀で刻んでいて、それが逼迫した状況だったかが伺えます。
その須弥壇は町の文化財にもなっています。
ここでは教如上人を守るため、地元の信者80数名が京都まで一緒に向かいます。
その功績をたたえ、土手組(どろてぐみ)という称号と本山直参の特別待遇を受けることになりました。
こちらは織田信長が斎藤龍興と戦った森部合戦のあった、森部という地域にあります。
愛知県津島市本町1丁目41
名鉄津島線津島駅下車徒歩10分
岐阜県安八郡安八町森部1683
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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