愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2019.05.08
徳川四天王の一人で、猛将と呼ばれ、愛槍の蜻蛉切りが有名な本多忠勝。
彼の祖父、父も同じく猛将であり、ふたりとも長きにわたる安祥合戦で戦死しています。
そのエピソードは戦場で全力で戦う姿勢が見られるものでした。
市内には戦士したと言われる場所に墓碑があるので、こちらをご紹介します。
安祥城付近で織田氏と、松平氏と今川氏がこのあたりの領地を巡り戦った合戦。
期間は長く天文9年(1540)から天文18年(1549)までと、9年間で3回に渡って行われた合戦です。
織田信秀による三河侵略による戦いですが、結果的には織田家の西三河での勢力は弱まり、代わりにほとんどの領地を今川家が治めることになりました。
第一次安城合戦で安祥城は、約10年もの間、織田家の持城になります。
孤立した松平広忠は、刈谷の水野忠政と手を結び、於大と結婚。そして今川義元を頼って今川家が介入し、第一次小豆坂の戦いが勃発し、織田軍が勝利します。
この時の戦死者を葬った塚があり、松平家の戦死者が眠るのが東条塚です。
まだまだ苦難は続きます。
その翌年、刈谷城主の水野忠政が死亡し、後ろ盾を失った広忠。
叔父の松平信孝は織田家に与し、安祥城の出城のような場所に山崎城を築くなど、松平家内部の争いも耐えない状態でした。
しかし、天文14年(1545)の9月20日、松平広忠は安祥城奪還を目指して出陣します。
これが第二次安城合戦と言われるものです。
信広は織田信秀軍のいる安祥城を包囲しますが、後詰の織田軍に挟み撃ちになれ絶対絶命の状況となってしまいます。
先陣をつとめていた祖父・本多忠豊は、広忠を無事に岡崎城に帰還させるため、馬印を身に着け身代わりとなって戦死しました。
その戦士した場所に墓碑があります。
住宅街の中にありますが、矢印があるので迷わず行けると思います。
第二次安城合戦で敗退することとなり、松平家の勢力が弱体化したこととなり、刈谷城の水野信元は織田につくことになり、このあたりは織田家の勢力下に属することになります。
天文16 年(1547)は広忠の叔父であり、離反者である松平信孝が広忠の軍と戦い勝利してしまいます。
焦った信広はなんとか一族の離反者から岡崎城を守るべく、信孝と結託していた上和田城の松平忠倫を欺き刺殺してしまいます。
これを聞いた織田信秀は、報復のために兵を挙げます。
しかし今の状況では岡崎城を守りきれないと判断した広忠は、今川義元に援軍を頼みます。
その条件として、人質に竹千代が送られることになりました。
そして今川軍は太原雪斎を送り込み、将として、第二次小豆坂の戦いに参戦し、織田軍に勝利します。
天文17 年(1548)4月には、山崎城の松平信孝が岡崎城を攻撃すべく出陣するも、酒井正親、石川清兼と戦い戦死。
ようやく身内に敵がいなくなった広忠ですが、翌年3月に家臣の岩松八弥に殺害されてしまいます。
それを聞いた今川軍は再度太原雪斎を将として、約2万の兵を率いて三河へ進軍。当時、人質を織田家に取られてしまっていたこともあり、安祥城主の織田信広を生け捕りにするのが狙いでした。
ここで織田信広が討って出るのをまっていたものの、無理だと思った信広は城へ逃げ帰ってしまいます。
本多忠高は本丸まで追い詰めますが、敵の矢に当たり戦死してしまいました。
戦いの結果、10月に再攻撃を行い、11月には信広が降伏し、ようやく竹千代と人質交換できて第三次安城合戦は終わりました。
その深追いし忠高の墓碑は安城市歴史博物館近く、大乗寺にあります。
安城市安城町赤塚86
安城市安城町赤塚4-1
安城市安城町多門
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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