続100名城を巡る 「赤木城」
2024.08.12
2020.11.01
あまりにも有名な方広寺の鐘。
結果的に、豊臣家を滅ぼすまでに至ってしまいました。
『言ったもの勝ち』の要素が否めない事件ではありますが、それが世の中の不条理。
結局は抵抗できなかったが者が滅びてしまうというなんとも切ない事件です。
豊臣秀吉は自分の死後は『八幡神』とするように遺言に残しました。
その『八幡神』とは、奈良県の東大寺が大仏を建造する際、協力しようとお告げをした神様です。
豊臣秀吉は、大仏の造立を発願し、念願が叶って大仏を建てましたが、その後の大地震の際に倒壊してしまいました。
大仏を建てることは叶いましたが、『新八幡』となることはできなかった秀吉は、徳川家康の案で方広寺の鎮守となりました。
『新八幡』の神として祀られることもなかったとはいえ、『豊国大明神』として神様になったにもかかわらず、家康によって『神』をはく奪され、『国泰院俊山雲龍大居士』となりました。
その方広寺に豊臣秀吉、最愛の息子である豊臣秀頼が梵鐘を鋳造しました。
その梵鐘に刻まれた言葉が、豊臣家を滅ぼすきっかけになったということは、あまりにも有名です。
さて方広寺の梵鐘に、『国家安康』『君臣豊楽』の文字が刻まれていたことに徳川家康が腹を立てたといわれていますが、実際のところはどうだったのでしょう。
過去のことは、事実から推測することしかできませんし、切り口が違えば、よくも悪くもとることができます。
だからこそ自分だったらどう考えるかな?と自分なりの考えをもつのは楽しいものです。
私は、そもそも梵鐘にこのようにたくさんの文字を書こうと思ったのは誰か、そして誰が書いたのか、なぜその言葉を選んで入れたのか、それは誰の命によるものなのか、というところが知りたいと思いました。
しかしそれは、私の力不足で現段階においては調べきれていません。
そこで例えば、それらすべて、つまり梵鐘を造らせたことも、文字を刻ませたことも、徳川家康の計画だとしたらどうでしょう。
徳川家康に許しを請うために、徳川家康のもとに送った豊臣秀頼のお守り役の片桐且元を自分側につけてしまうことまでも計画に入れていたとしたら、徳川家康の人物像は、そうとうの策略家といえます。
戦国の世で天下をとるには秀頼のような『優しさ』や『人のよさ』だけでは成り上がれなかったのかもしれません。
徳川家康がどのような手立てをとったとしても、勝者は徳川家康。
よれがよいことなのか、よくないのか。
いずれにせよ、どんな角度からみるかによって、その答えも自ずとかわってしまうものです。今も昔も・・・。
京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町527-2
拝観時間:9:00~16:00
休業日:不定休
京阪電車 七条駅下車 徒歩8分
市バス 博物館・三十三間堂前 下車 徒歩5分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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