武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2021年12月27日記事のため内容が古い可能性があります。

足跡を巡る 徳川家康の巻:其の四

2021.12.27

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

三方ヶ原の戦い

一言坂、二俣城での戦いに敗れ、武田軍の勢いに翻弄される徳川家康。
武田軍は一気に浜松城へ攻め込むかと思いきや、方向をかえて西進を開始。

「これは無視できまい」と徳川家康は籠城策を捨てを追撃に打って出ますが、
三方ヶ原の地で武田軍の待ち伏せにあい、さらなる敗戦を喫する結果に。

その後、武田軍のいた犀ヶ崖へ夜襲をかけ一矢報いたともいわれていますが、
多くの重臣を失い、徳川家康自身も命からがら逃げ帰るほどの大敗となりました。


三方ヶ原古戦場碑
所在地:静岡県浜松市北区根洗町1109

犀ヶ崖古戦場(犀ヶ崖資料館)
所在地:静岡県浜松市中区鹿谷町25

信玄の死、勝頼の猛攻

1573年に入ると、武田信玄の病死により武田勝頼が武田家の家督を相続。
武田勝頼は諏訪原城を築かせ、遠江国奪取にむけて動き出します。


武田信玄死後、徐々に盛り返しつつあった徳川方でしたが
1574年に高天神城を落とされるなど、またしても窮地に陥る事態に。


諏訪原城跡
所在地:静岡県島田市菊川1172

高天神城跡
所在地:静岡県掛川市上土方嶺向

長篠設楽原の戦い

領地をめぐり、激しく争う織田・徳川連合軍と武田軍。
両軍は1575年、長篠城の攻防を経て設楽原の地で雌雄を決する戦に挑みます。

徳川家康は、最前線にあたる弾正山に布陣。織田・徳川連合軍は万全の構えで迎え撃ち、
終始戦いを優位に進め大勝利。武田軍にとっては、多くの重臣を失う敗北となりました。

設楽原決戦場
所在地:愛知県新城市大宮清水1−9

徳川家康本陣跡(八剱神社)
所在地:愛知県新城市竹広

二俣城奪還

大一番に勝利した織田・徳川方は、これを期に失地回復に乗り出します。
徳川家康はすぐに諏訪原城を落とし、鳥羽山城に布陣し二俣城を包囲。


二俣城の他、犬居城なども攻略し、武田氏との争いにおいて優位な立場になりました。


この頃には織田信長との関係が同盟というより従属に近いかたちになっており、
武田氏を退けたといえども、徳川家康の苦難はまだまだ続きます。

鳥羽山城跡(鳥羽山公園)
所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣2364

犬居城跡
所在地:静岡県浜松市天竜区春野町堀之内字犬居

おまけ

其の一は、三方ヶ原の戦いで敗走する徳川家康が寄ったという浜松八幡宮。
こちらの「雲立のクス」に潜んで助かった、という伝説があるそうな。


其の二は、柿本城跡のすぐ側にある満光寺。
ここには、武田軍に追われる徳川家康が鶏に助けられたという伝説が残っています。


浜松八幡宮
所在地:静岡県浜松市中区八幡町2

満光寺
所在地:愛知県新城市下吉田田中140

 

徳川家康公を守った伝説の木があるお社、浜松八幡宮の記事はこちら

 

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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