信長・秀吉・家康と三英傑にゆかりのある「大徳寺」をご紹介
2024.07.30
2025.06.02
正式名称は「元離宮二条城」。
世界遺産でもある「二条城」は、徳川家康が築いた京都御所の守護と将軍上洛の宿泊所です。
二条城の見どころといえば「二の丸御殿」ですが、「二の丸御殿」内は撮影禁止なので、今回は、二条城観光前にこれを知っておくとよいかもという豆知識を、元教員ならではの視点でお話ししていきたいと思います。
1603年、後陽成天皇は、家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれました。
家康は、天皇の住む京都御所を守護するため、将軍上洛の際の宿泊所とするために二条城を築城しました。
二条城が正式名称を「元離宮二条城」とされる「離宮」というのは、このことによるものです。
天皇のお住まいを一般的に皇居と呼んでいますが、厳密には居住されている部分は「宮殿」であるため、「宮殿」とは離れた場所にある天皇の住まう場所が「離宮」ということになります。
私たちが「城」と聞いてイメージするのは「石垣」や「天守閣」などではないでしょうか。
世界遺産に指定されている兵庫県の姫路城などは、その代表といえますよね。
二条城ももちろん世界遺産に指定された「城」のひとつです。
主に中世安土桃山時代の戦国大名が城主であった頃の城の「城」が、一般的に「城」と呼ばれていますが、それ以前にも「城」はあったと考えられています。
たとえば、『後三年絵巻』において「金沢柵の落城」としての絵が残されており、「城」を守っていた難攻不落の「金沢柵」が、後三年合戦の最後の激戦地となり、落城されたとされています。
「金沢柵の落城」、落城ですから「城」があったということですね。「柵」を「城」と考える説もあるようです。
ちなみに、この「城」を守っていた「柵」が、現在の「柵(フェンス)」につながっています。
「金沢柵」は古代のものですが、古代の「城」から中世戦国大名時代の「城」への移り変わりは、石垣の高さや城の大きさなどが増幅していることから考えて、戦いの激しさや城主の権威を表すなどの背景が考えられます。
「城」の美しさや剛健さなどは、戦国大名そのものを象徴しているのかもしれませんね。
二条城は正式名称「元離宮二条城」ですあり、「天皇の住む京都御所を守護するため」「将軍上洛の際の宿泊所とするため」という二つの側面をもつとされています。
ですが、天皇の離宮である二条城であるのに、二条城には徳川家将軍、または江戸から派遣された武士によって守られていたというのは、少し不思議ではありませんか。
「将軍上洛の際の宿泊所とするため」ということは、征夷大将軍である家康が上洛する際の宿泊所でもあると解釈でき、つまり「家康の別邸」でもあるととらえることができます。
家康の孫にあたる、3代将軍家光の時代には、後水尾天皇行幸のためにという理由で、城内の大規模改修が行われ、二の丸御殿などには、狩野探幽の障壁画等が数多く加えられました。
これらが、二条城観光で皆さんが注目しているもののひとつである、桃山文化の精神を代表する文化資産ですよね。
これらの荘厳な城に徳川家が天皇を迎え入れるということで、江戸幕府が世を支配しているということを示しているように感じられます。
家康は、離宮といいながらも、そのときすでに、統治者は徳川家である、として二条城を築城したのかもしれません。
繰り返しになりますが「二条城」の正式名称は「元離宮二条城」です。
そして「二条城」というのは、この「元離宮二条城」だけではなく他にもあるとされています。
私が現在もまだ教員であったなら、
「二条城の正式名称は元離宮二条城ですが、それはなぜだと思いますか」という問いを、児童生徒になげかけるかもしれません。
どんな風に調べて、何とこたえてくれるでしょうか。
想像するだけでワクワクします。
二条城の観光の際は、名目上は離宮でありながら、家康は徳川の城としたかも?という視点で観てもまた、楽しいかもしれませんよね。
京都府京都市中京区二条城町541
JR京都駅から嵯峨野線 二条下車
京都市営地下鉄 二条城前駅下車
※有料の駐車場、駐輪場があります
時間制限や料金はありません
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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