武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2023年11月18日記事のため内容が古い可能性があります。

どこにいた家康 Vol.44 二条城

2023.11.18

この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。

徳川家康のつくった世を見届けた「二条城」

今回の史跡は、関ヶ原の戦い後に徳川家康が築城した「二条城」です。

将軍上洛時の宿所として1601年に「天下普請」で築城開始、
1603年に現在の二の丸部分が完成し、征夷大将軍となった徳川家康が入城。
この際、二条城にて将軍就任の祝賀の儀が行われたといわれております。

1611年には二条城にて徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われ、
1614年から始まる大坂の陣では徳川家康が二条城から出陣しました。
その後二代将軍・徳川秀忠が改修し三代将軍・徳川家光が入城。

さらに時を経た1867年には、十五代将軍・徳川慶喜が二条城の二の丸御殿にて、
徳川の世を終わらせることを意味する「大政奉還」の意思を表明。
二条城は、250年以上にわたる徳川の世の始まりと終わりの地となりました。

ちなみに、二条城は明治維新後に皇室の離宮となったため「二条離宮」となり、
1939年に二条離宮は京都市に恩賜され「元離宮二条城」と改称。
現在、徳川家光の代につくられ現存する「二の丸御殿」が国宝となっており、
「二の丸御殿唐門」や「東大手門」などが重要文化財に指定されております。

なお、2011年からおよそ20年をかける予定の保存修理事業が行われており、
2023年11月現在、改修中の本丸御殿は見学できません。
改修のおおまかな予定は元離宮二条城のHPに記載されておりますので、
訪れる際は軽くチェックしておくとよいでしょう。

世界遺産 元離宮二条城のHPはこちら>

関ヶ原の戦いに関する記事が盛り沢山!一覧はこちら>

 

「二条城」の見学ルート①

・まずは「南東隅櫓」を見てから東大手門へ

・こちらが入口にあたる現存建築物の「東大手門」
後水尾天皇の行幸時に高麗門となり、その後現在の形に戻ったとか

・東大手門をくぐると右手にあるのが「番所」、こちらも現存建築物です

・南→西へ築地(ついじ)沿いに進み、豪華絢爛な「唐門」がある二の丸方面へ
後水尾天皇の行幸にあわせて建てられたそうで、近年修復されております

・そして、こちらが二条城最大の見どころである国宝の「二の丸御殿」
徳川家康が造営、徳川家光が改修したという歴史ある御殿です

・二の丸御殿内を見学した後、順路に従い「二の丸庭園」へ
庭園つくりの名人・小堀遠州の代表作とされる見事な庭園が見渡せます

・「二の丸御殿」の北端にあたる白書院を外から撮影

 

徳川家康が豊臣秀頼と久々に対面した「二条城」での会見

関ヶ原の戦い後、勝利した徳川家康は戦後処理を開始します。
この時、味方したものへの加増に「太閤蔵入地(くらいりち)」という
豊臣家の直轄地だった領地を与え、豊臣家の弱体化に成功。
さらに、豊臣恩顧の武将たちは加増しつつ遠隔地へ移封、
要衝には身内や信頼する武将たちを配置し、着々と天下取りへ前進してゆきます。

1603年に徳川家康が征夷大将軍となり、豊臣秀頼と徳川家康の孫娘・千姫が結婚。
腹の内はともかく、この頃まで両家の関係は表面上良好かに見えました。
しかし、1605年に徳川家康が将軍職を辞し、徳川秀忠が将軍に就任すると一変。
「以後、将軍職は徳川家が世襲する」という姿勢をみせると豊臣家はこれに反発、
豊臣秀頼は新将軍との対面を拒絶するなど、両家の関係は徐々に悪化してゆく事態に。

このような状況の中、1611年に徳川家康が後水尾天皇即位の儀式に立ち会うため上洛。
徳川家康は豊臣秀頼に対し二条城での会見を行えないかと提案し、
豊臣秀頼側も加藤清正らの説得によりこれを承諾します。

会見の日、徳川家康は二条城の玄関先まで行き、豊臣秀頼をお出迎え。
徳川家康は、豊臣秀頼を「御成の間」に上げて対等に会見しようと提案するものの、
豊臣秀頼はこれを固辞し、徳川家康を上席にすえたまま会見は無事終了します。

久々に会った豊臣秀頼は、19歳となり身も心も立派に成長。
さらに、豊臣秀頼が民衆の間でまだまだ人気があること、
有事の際には従う武将たちも少なからずいそうだということを知り、
徳川家康はこの「二条城会見」で危機感を抱いたといわれております。

 

「二条城」の見学ルート②

・二之丸を西に進み、お次は本丸方面へ
写真は、その手前南側にある「桃山門」と内堀です

・こちらが本丸へ至る「本丸櫓門」、外側からと内側から一枚ずつ

・本丸を南西に進み、かつて伏見城から移築された天守のあった「天守閣跡」へ

・「天守閣跡」からの眺め、一枚目は本丸御殿(見学時は修復工事中でした)方面、
二枚目は外側北側にある本丸西門跡方面の写真です

・天守閣跡を北へ進み、「本丸西門跡」を通過して外側から撮影
内堀にかかる西橋あたりから、天守閣跡の石垣もチェックしましょう

・西橋を南へ移動し「南米蔵」、その後に北→東と移動し「北中仕切門」へ

・二条城北側の「清流園」を散策しながら、東大手門の方へ戻りましょう

 

次回どうなる、『どうする家康』

「天下分け目の戦い」が終わりました。
関ヶ原の準主役だった石田三成や大谷吉継はもちろん、
感情豊かな上杉景勝、不敵な雰囲気の宇喜多秀家、
うろたえず戦況を見て東軍についた小早川秀秋など、
個性的だった面々もここで恐らく見納めでしょう。

徳川家康の前に立ちはだかるもの、残るは豊臣家のみ。
毛利輝元に対し平手打ちした茶々と、成長した豊臣秀頼が
はたしてどのように立ち回るのか、という点に今後注目ですね。
於大も久々に登場するようなので、こちらも楽しみにしたいと思います。


織田信長が築いた二条城があった「旧二条城跡」

今回の史跡「二条城」

元離宮二条城
場所:京都府京都市中京区二条城町541

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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