武将愛 SAMURAI HEART

名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.00 はじめに 

2025.01.28

名古屋城築城と天下普請

徳川家康が名古屋城築城を命じたのが1609年(慶長14年)。
当時、尾張の中心地は清須でしたが、水害に弱かったことや
豊臣家への備えとして地理的に不利だったことなどもあり、
名古屋へ移転を決めたといわれております。

名古屋城築城は、西国や北国の大名20名を動員し1610年(慶長15年)に開始。
軍事的な理由の他、徳川家康の九男である徳川義直の居城ということもあり、
かなり大掛かりな「天下普請(公儀普請)」として行われました。

当時作成された「丁場割図」によれば、
名古屋城の普請を割り当てられた大名は

前田利常(松平筑前守/加賀・能登・越中)
黒田長政(黒田筑前守/筑前)
細川忠興(羽柴越中守/豊前)
鍋島勝茂(鍋島信濃守/肥前)
田中忠政(田中筑後守/筑後)
寺澤広高(寺沢志摩守/肥前)
毛利高政(毛利伊勢守/豊後)
竹中重利(竹中伊豆守/豊後)
稲葉典通(稲葉彦六/豊後)
木下延俊(木下右衛門大夫/豊後)
金森可重(金森出雲守/飛騨)
池田輝政(羽柴三左衛門/播磨)・池田利隆(松平武蔵守)
生駒正俊(生駒左近大夫/讃岐)
福島正則(羽柴左衛門大夫/安芸・備後)
浅野幸長(浅野紀伊守/紀伊)
山内忠義(松平土佐守/土佐)
毛利秀就(松平長門守/長門・周防)
蜂須賀至鎮(蜂須賀阿波守/阿波)
加藤嘉明(加藤左馬助/伊予)
加藤清正(加藤肥後守/肥後)

以上の20名(池田家は父子で参加)。
これだけの大名とその家臣たち、さらに数多くの人夫(労働者)を動員し、
加藤清正が担当した天守台の石垣は約2ヶ月半、
その他の石垣も約3ヶ月半でほぼ完成したといわれております。

そもそも「刻印」とは何か?

石垣に使われている石に刻まれたマークが「刻印(もしくは刻紋)」で、
名古屋城には570種類以上もの刻印があるといわれています。

石に刻印をつけた理由については、
前述したように様々な大名たちが入り乱れた現場で
「積む箇所の担当者が誰かを明らかにするため」
だといわれておりますが、以下のような考察も。

①ケンカ対策
 →争いが厳禁だった現場において、石の所有者や担当箇所でもめないように?

②幕府による石の検査対策
 →切り出した石の質が良い、というお墨付きの印だった?

③担当者の名誉のため
 →築城という大事業を担当した者の功績を称えた?

現場である名古屋城だけでなく、
石を切り出す→現場へ運搬という過程でもトラブルが起こらないよう
チェックのために刻印をしたという見方もあるのだとか。

石を切り出す「石丁場」争奪戦が繰り広げられた?

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利して以降、
徳川家康は翌年の膳所城築城を皮切りに天下普請を連発。
二条城、伏見城、加納城、彦根城、長浜城、篠山城などの他、
駿府城や江戸城の新築もしくは大改修を行います。

このような流れの中、普請を命じられた大名たちは、
石垣を築くための石を調達するのに四苦八苦。
石材を切り出す「石丁場(いしちょうば=採石場)」の確保は最優先事項で、
良い石丁場は使用料を払って権利を確保していたようです。


 
愛知県蒲郡市の西浦

福島正則が採石を行ったといわれる地、写真中央左付近に刻印あり。

 

福島正則が担当した本丸不明門の刻印。


 
愛知県蒲郡市の竹島

こちらは毛利秀就が採石を行ったといわれる地、刻印石あり。

 

本丸御殿の東側にある石垣、
ここは黒田長政の担当箇所ですが似た刻印があり。

名古屋城にある「刻印」の種類

名前

天守台北東隅部にある「加藤肥後守 内 小代下総」

加藤清正の家臣(「加藤肥後守 内」)である
小代下総守(しょうだいしもうさのかみ)の名が刻まれた石。
名古屋城にある名入りの刻印の代表といっても過言ではありません。



天守台東側にある「小代」
他にも、名を短縮して入れた「小代」という刻印石もちらほら。
日が当たっていない方が若干わかりやすい?

 


 
表二之門桝形西壁にある「た中ちくこ守石」


田中忠政(田中筑後守、筑後=ちくこ)の名が刻まれた石。
ほとんどの刻印は、陽が当たっていると見つけやすいです。


「た中ちくこ守石」は、正門付近にあるお土産屋さんの前にもあります。

 


 
東大手門跡北側にある「はちすか 内 山田」

蜂須賀至鎮(蜂須賀阿波守)の家臣である山田の名が刻まれた石。

名前+刻印

本丸東壁、東南隅櫓下にある「三佐」+刻印

「三左(=三左衛門の略)」という池田輝政の名と刻印のセット。
このエリアには三左の名が刻まれた石がたくさんあります。


 
本丸東壁にある「松むさし」+刻印

「松むさし(=松平武蔵守の略)」という池田利隆の名と刻印のセット。
日が当たってないと、肉眼で見つけるのは困難といえるでしょう。


 
搦手馬出東壁下にある「はちすか 内 修理」+刻印2つ


1枚目は2024年8月に発掘調査現地説明会の際に撮影したもの、
2枚目は二之丸の埋門跡あたりから望遠で撮影したものです。

 

刻印のみ

天守北側の礎石スペース、ここにも刻印石が盛りだくさん


 
西南隅櫓の南側にある庭園のようなスペースにある刻印


 
正門をくぐり左手を振り返るとある刻印。ひょうたん小僧だそうな。


 
東大手門跡北側にある刻印。一つの石に二種類、三種類と刻印があります。


 
本丸南壁、東南隅櫓下にある刻印。写真右上の石には4種類もの刻印が!

 


 

ざっと名古屋城の刻印についてふれてきましたが、これもほんの一部。
次回からじっくりどこにどの刻印があるのかご紹介してゆきたいと思います。

今回の史跡「名古屋城」

名古屋城
場所:愛知県名古屋市中区本丸1−1

電車でのアクセス:地下鉄名城線「名古屋城駅」下車後徒歩約5分
車等でのアクセス:名古屋高速都心環状線「丸の内IC」から北方向へ約5分

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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