愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2023.05.07
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
破竹の勢いで迫りくる武田軍に徳川家中は危機感を募らせるという展開とあって
徳川家康も終始真剣な表情で、シリアスな場面が多めの第17回でした。
浜松城に籠城し武田軍を足止め、その後織田信長が援軍にきて武田軍を挟み撃ち
…という戦略を練るものの、武田軍は浜松城を無視して西進開始。
武田信玄の掌で踊らされた後、徳川家康が重い決断を下すシーンが印象的でした。
今回の史跡は、いよいよ始まった徳川家康と武田信玄の三方ヶ原の戦いゆかりの地です。
西進を決めた武田信玄は、まず自軍を二つに分けて三河と遠江へ侵攻を開始。
武田信玄率いる本隊は甲府から南下し飯田城・久野城らを攻めつつ進軍、
山県正景率いる支隊は信濃から回り込み長篠城・柿本城らを落とし浜松へ迫りました。
<強い!武田信玄ゆかりの地はこちらから>
武田信玄ゆかりの地を巡る記事(前編)はこちら
・飯田城 東側の入口付近から見た全体図と、「本曲輪」を上から見た図
物見曲輪にある「城跡碑」と、大手方面にある「虎口」
・久野城 1枚目は北側にある駐車場付近の写真
こちらは東側の「大手口」、往時は水堀に囲まれていた堅固な城だったようです
攻略に時間がかかるとふんだ武田信玄は、ここを通過し西進したという話もあるとか
北側の駐車場上にある「北の丸」から見た本丸方面と、本丸から見た「二の丸」
・柿本城 城跡への登り口と、柵がつくられている曲輪
「本丸」入口と、徳川家康の命でこの地に築城した「鈴木重勝の石碑」です
徳川方にとって重要であった二俣城を包囲され、危機に陥った徳川家康は、
東から迫る武田軍の様子をうかがうため、本多忠勝・大久保忠世らとともに出陣。
しかし、偵察にとどめるつもりが武田軍に捕捉され「木原畷」で交戦することに。
その後退却するも「一言坂」で追いつかれ危機に陥りますが、ここで殿を務めた本多忠勝が奮戦。
この時の本多忠勝の雄姿を見て、武田家の小杉左近という人物が
「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と称したという逸話が残っております。
・三箇野台 現在「大日堂」が建つこの地からは東の袋井方面が一望でき、
先行した本多忠勝が、ここから物見をしたというお話があるそうです
・木原畷 三箇野台から少し東にある「木原畷(きはらなわて)」、ここで両軍は激突
徳川家康が関ヶ原の戦い前に先勝祈願をし、その際に腰掛けたといわれる「腰掛石」もあります
・一言坂 数ある本多忠勝の武勇の中でも、語られることの多い「一言坂」
槍を振り回しながら草を焼いて煙幕を張り、自軍の退却を成功させたそうな
・挑燈野 しかし、伝承ではさらに西の「挑燈野」で武田軍に追いつかれた徳川家康が、
武田軍をぬかるみに誘い込み一矢報いた…というお話もあるそうです
次回のタイトルは、「真・三方ヶ原合戦」。
徳川軍がいかにして武田軍に敗れたか、その様子が細かく見られそうです。
徳川家康の安否が不明な状況で、家臣たちや織田信長らはどう考え、どう立ち回るのでしょうか。
そして、重要な役割を果たす本多忠真と夏目広次の雄姿にも期待したいと思います。
飯田城
場所:静岡県周智郡森町飯田2885
久野城
場所:静岡県袋井市鷲巣1281
柿本城
場所:愛知県新城市下吉田柿本36
三箇野台
場所:静岡県磐田市三ケ野1222
木原畷古戦場(許禰神社)
場所:静岡県袋井市木原278
一言坂古戦場跡
場所:静岡県磐田市一言2922−1
旧蹟挑燈野
場所:静岡県磐田市上万能
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
愛知県の記事
徳川家康の記事
この記事の後によく読まれているおすすめ記事
バックナンバー記事
この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています