100名城を巡る「金山城」
2024.09.28
2019.07.13
井伊直虎の養子である井伊直政。
徳川家康の側近として仕えた他の三武将、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政らと共に徳川四天王として有名です。
優れた人物には、優れたものが仕えるというのは、今も昔も変わりませんが、
家康が活躍できたのも、まさにこういった優れた側近たちのおかげといっても過言ではありません。
(公園内の花)
どの側近たちも、みなそれぞれに素晴らしいのですが、
井伊直政は特に外交面で家康を盛り立てたと考える見方があります。
井伊直政はたくさんの大名とやりとりをしていた様子が史料として残されていて、
特に豊臣秀吉が亡くなってから、豊臣側の武将たちを徳川側に引き入れようと力を注いだようです。
黒田官兵衛は井伊直政と盟約を結んだということですから、すごい力の持ち主ですね。
そのほか、関ヶ原の戦いでの寝返りは、有名な話ですが、西軍大将の毛利輝元も、
井伊直政によって、その後家康に忠節を誓うことを約束させたということです。
井伊直政って、どんな人物だったのでしょうね。
外交が得意というと柔和で人当たりがよいというイメージですが、井伊直政はそういったイメージよりも
どちらかというと強面な印象が強いようですね。本当のところはどうだったのか気になるところです。
けれど、大河ドラマなどで放映されると、私たちは、配役さんのもつキャラクターがイメージとなって印象づけられることが多いので、
今は、井伊直政=菅田将暉といったところでしょうか。
井伊家はざっくりいうと1000年くらいの歴史がある家系です。
その間には早くに亡くなってしまった方や養子などもいますが、江戸時代の制度で血縁関係が途絶えてしまうということはないので、
井伊直政のずっと先の子孫、井伊直弼とは血縁関係ということができます。
そんな井伊直弼は、日本との貿易を強く望んだアメリカと日米修好通商条約を結び、開国に貢献した人でもあります。
これがのちに大きな争いとなっていくのですが・・。
このときの井伊直弼の行動も、井伊直政の外交でのやり取りと似ていて、
まさに今どうするべきかを考えた行動だったということができるのです。血は争えませんね・・。
横浜の港を見下ろす小高い丘の上
その井伊直弼の像が横浜市西区にある掃部山公園(かもんやまこうえん)にあります。
横浜市西区のこの場所は、最初は、鉄道開通(1872年)の際、蒸気機関車の給水場だったことで
「鉄道山」と呼ばれていました。
(給水場跡)
そののち、この「鉄道山」は井伊家に買い取られたため、「井伊直弼」の官名である「掃部頭」から
「掃部山」と変更されたそうです。
そのため、この「掃部山公園」には、井伊直弼の銅像が建てられたということです。
思いのほか大きいので、けっこう迫力があります。
掃部山公園アクセス
JR桜木町駅 徒歩10分
京浜急行 日ノ出町駅 徒歩7分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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