武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2017年9月18日記事のため内容が古い可能性があります。

「玉縄城」は徳川家康とも関係があるって本当?

2017.09.18

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玉縄城があったとされる場所の近く、散策コースにもある龍宝寺(龍寶寺)は、

二代目玉縄城主である北条綱成が、お城の北東部に建立しました。

 

<「玉縄城」に関連する記事はこちら>

難攻不落の城 鎌倉の名城 「玉縄城」その1

徳川家康入国ゆかりの名城 玉縄城その2

 

 

あの有名進学校がある場所が・・。

この龍宝寺は、もとは龍宝寺とはいわず「瑞光院」といいました。

この瑞光院は、四代目城主になった北条氏勝が自分の前代である三代目北条氏繁を弔うために「龍宝寺」と名前を改め、場所をこの地に移したということです。

龍宝寺は北条氏繁の戒名からとりました。

そして最初に瑞光院があった場所には、現在「栄光学園」という神奈川県下でも有数の進学校が建てられています。

この場所に龍宝寺を移した北条氏勝は、大変勇敢な武将として有名でした。

 

北条氏が籠城した「玉縄城」

豊臣秀吉の小田原攻めのときのことです。

小田原城が落ちたと聞いたとき、北条氏勝は、自分の命はもはやすでにないもの、と覚悟はしていたようですが、北条氏は玉縄城で籠城をしました。

けれど、なかなか引かないため、龍宝寺の住職が説得し開城を決意。

北条氏勝は、徳川家康の勧告を受け入れると、徳川家康の家臣となり、下総一万石の藩主となったということです。

 

「玉縄城」廃城のあとは徳川家康の支配下に

北条早雲が小田原に進出してから、その後5代にわたって北条氏が関東で勢力を拡大していきました。

関東の中心拠点として勢力のあった小田原は、やがてやってくるであろう豊臣秀吉に備えていたといわれます。

けれど、1590年に豊臣秀吉により小田原攻めにあい、北条氏は約100年の時代を幕を閉じることになってしまったのです。

やがて北条氏が滅亡すると、この地は徳川家康の支配下におかれ、小田原攻めに参戦した大久保氏が小田原城主となり、この地を治めることになりました。

それと同時に玉縄城も廃城となりました。

 

 

北条と言えば、鎌倉時代を連想しますが、その後も関東では有力な武将として存在し、やがて、豊臣秀吉、徳川家康と武器こそ用いはしないものの戦っていたとは。

歴史はやはり知れば知るほど面白いですね!

 

【玉縄城へのアクセス】

JR横須賀線・東海道線・湘南新宿ライン・京浜東北線

大船駅下車 大船駅西口より徒歩20分

清泉女学院裏

※玉縄城址は、清泉女学院の敷地内にあります。敷地内には入ることができません。

 

【龍宝寺(龍寶寺)へのアクセス】

神奈川県鎌倉市植木129

 

 

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rico

教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。

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